に、三万円ちかく、もうけました。」
「永いこと、おつとめなのですか?」
「中学校を卒業して、すぐです。家がなくなったもので、皆に同情されて、父の知り合いの人たちのお世話もあって、あのデパアトの呉服部にはいることができたのです。皆さん親切です。妹も、一階につとめているのですよ。」
「偉いですね。」お世辞では、なかった。
「わがままで、だめです。」急に、大人ぶった思案ありげな口調で言ったので、私は、可笑《おか》しかった。
「いいえ、君だって、偉いさ。ちっとも、しょげないで。」
「やるだけのことを、やっているだけです。」少し肩を張って、そう言って、それから立ちどまった。「ここです。」
 見ると、やはり黒ずんだ間口《まぐち》十間ほどもある古風の料亭である。
「よすぎる。たかいんじゃないか?」私の財布には、五円紙幣一枚と、それから小銭が二、三円あるだけだった。
「いいのです。かまいません。」幸吉さんは、へんに意気込んでいた。
「たかいぞ、きっと、この家は。」私は、どうも気がすすまないのである。大きい朱色の額《がく》に、きざみ込まれた望富閣という名前からして、ひどくものものしく、たかそうに思われた。
「僕も、はじめてなんですが、」幸吉さんも、少しひるんで、そう小声で告白して、それから、ちょっと考えて気を取り直し、「いいんだ。かまわない。ここでなくちゃいけないんだ。さ、はいりましょう。」
 何か、わけがあるらしかった。
「大丈夫かなあ。」私は、幸吉にも、あまり金を使わせたくなかった。
「はじめっから計画していたんです。」幸吉は、きっぱりした語調で言って、それから自身の興奮に気づいて恥ずかしそうに、笑い出し、「今夜は、どこへでも、つき合うって、約束してくれたんじゃないですか。」
 そう言われて、私も決心した。
「よし、はいろう。」たいへんな決意である。
 その料亭にはいって、幸吉は、はじめてここへ来たひとのようでも無かった。
「表二階の八畳がいい。」
 案内の女中に、そんなことを言っていた。
「やあ、階段もひろくしたんだね。」
 なつかしそうに、きょろきょろ、あたりを見廻している。
「なんだ、はじめてでも、なさそうじゃないか。」私が小声でそう言うと、
「いいえ、はじめてなんです。」そう答えながら、「八畳は、暗くてだめかな? 十畳のほうは、あいていますか?」などと、女中にしきりに尋ねている。
 表二階の十畳間にとおされた。いい座敷だ。欄間も、壁も、襖《ふすま》も、古く、どっしりして、安普請《やすぶしん》では無い。
「ここは、ちっとも、かわらんな。」幸吉は、私と卓を挾《はさ》んで坐ってから、天井を見上げたり、ふりかえって欄間を眺めたり、そわそわしながら、そんなことを呟いて、「おや、床の間が少し、ちがったかな?」
 それから私の顔を、まっすぐに見て、にこにこ笑い、
「ここは、ね、僕の家だったのです。いつか、いちどは来てみたいと思っていたのですが。」
 そう聞いて、私も急に興奮した。
「あ、そうか。どうりで家のつくりが、料理屋らしくないと思った。あ、そうか。」私も、あらためて部屋を見まわした。
「この部屋には、ね、店の品物が、たくさん積みこまれて、僕たちは、その反物《たんもの》で山をこさえたり、谷をこさえたりして、それに登って遊んだものです。ここは、こんなに日当りがいいでしょう? だもんだから、母は、ちょうどあなたのお坐りになっていらっしゃるその辺に坐って、よく仕立物をしていました。十年もむかしのことですが、この部屋へ来てみると、やっぱし昔のことが、いちいちはっきり思い出されます。」静かに立って、おもて通りに面した、明るい障子を細くあけてみて、
「ああ、むかい側もおんなじだ。久留島さんだ。そのおとなりが、糸屋さん。そのまた隣が、秤《はか》り屋さん。ちっとも変っていないんだなあ。や、富士が見える。」私のほうを振りかえって、
「まっすぐに見える。ごらんなさい。昔とおんなじだ。」
 私は、先刻から、たまらなかった。
「ね、かえろうよ。いけないよ。ここでは酒も呑めないよ。もうわかったから、かえりましょう。」不気嫌にさえなっていた。「わるい計画だったね。」
「いいえ、感傷なんか無いんです。」障子を閉めて、卓の傍へ来て横坐りに坐って、「もう、どうせ、他人の家です。でも、久しぶりに来て見ると、何でもかんでも珍らしく、僕は、うれしいのです。」嘘でなく、しんから楽しそうに微笑しているのである。
 ちっとも、こだわっていないその態度に、私は唸《うな》るほど感心した。
「お酒、呑みますか? 僕は、ビイルだと少しは、呑めるのですけれど。」
「日本酒は、だめか?」私も、ここで呑むことに腹をきめた。
「好きじゃないんです。父は酒乱。」そう言って、可愛く笑った。
「私は酒乱じゃな
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