うの不人情のあだを打って見せる、婆、その時まで死なずに待って居《お》れ、と心の内で棄台詞《すてぜりふ》を残して、足音荒く馴染《なじみ》の茶屋から引上げた。
男は国へ掃ってまず番頭を呼び、お金がもうこの家に無いというけれども、それは間違い、必ずそのような軽はずみの事を言ってはならぬ、暗闇《くらやみ》に鬼と言われた万屋の財産が、一年か二年でぐらつく事はない、お前は何も知らぬ、きょうから、わしが帳場に坐る、まあ、見ているがよい、と言って、ただちに店のつくりを改造して両替屋を営み、何もかも自分ひとりで夜も眠らず奔走すれば、さすがに万屋の信用は世間に重く、いまは一文無しとも知らず安心してここに金銀をあずける者が多く、あずかった金銀は右から左へ流用して、四方八方に手をまわし、内証を見すかされる事なく次第に大きい取引きをはじめて、三年後には、表むきだけではあるがとにかく、むかしの万屋の身代と変らぬくらいの勢いを取りもどし、来年こそは上方へのぼって、あの不人情の廓の者たちを思うさま恥ずかしめて無念をはらしてやりたいといさみ立って、その年の暮、取引きの支払いを首尾よく全部すませて、あとには一文の金も残らぬが、ここがかしこい商人の腕さ、商人は表向きの信用が第一、右から左と埒《らち》をあけて、内蔵はからっぽでも、この年の瀬さえしっぽを出さずに、やりくりをすませば、また来年から金銀のあずけ入れが呼ばなくってもさきを争って殺到します、長者とはこんなやりくりの上手な男の事です、と女房と番頭を前にして得意満面で言って、正月の飾り物を一つ三文で売りに来れば、そんな安い飾り物は小店に売りに行くものだよ、家を間違ったか、と大笑いして追い帰して、三文はおろか、わが家には現金一文も無いのをいまさらの如く思い知って内心ぞっとして、早く除夜の鐘が、と待つ間ほどなく、ごうん、と除夜の鐘、万金の重みで鳴り響き、思わずにっこりえびす顔になり、さあ、これでよし、女房、来年はまた上方へ連れて行くぞ、この二、三年、お前にも肩身の狭い思いをさせたが、どうだい、男の働きを見たか、惚《ほ》れ直せ、下戸《げこ》の建てたる蔵は無いと唄にもあるが、ま、心祝いに一ぱいやろうか、と除夜の鐘を聞きながら、ほっとして女房に酒の支度を言いつけた時、
「ごめん。」と門に人の声。
眼のするどい痩せこけた浪人が、ずかずかはいって来て、あるじに向い、
「さいぜん、そなたの店から受け取ったお金の中に一粒、贋《にせ》の銀貨がまじっていた。取かえていただきたい。」と小粒銀一つ投げ出す。
「は。」と言って立ち上ったが、銀一粒どころか、一文だって無い。「それはどうも相すみませんでしたが、もう店をしまいましたから、来年にしていただけませんか。」と明るく微笑《ほほえ》んで何気なさそうに言う。
「いや、待つ事は出来ぬ。まだ除夜の鐘のさいちゅうだ。拙者も、この金でことしの支払いをしなければならぬ。借金取りが表に待っている。」
「困りましたなあ。もう店をしまって、お金はみな蔵の中に。」
「ふざけるな!」と浪人は大声を挙げて、「百両千両のかねではない。たかが銀一粒だ。これほどの家で、手許《てもと》に銀一粒の替《かえ》が無いなど冗談を言ってはいけない。おや、その顔つきは、どうした。無いのか。本当に無いのか。何も無いのか。」と近隣に響きわたるほどの高声でわめけば、店の表に待っている借金取りは、はてな? といぶかり、両隣りの左官屋、炭屋も、耳をすまし、悪事千里、たちまち人々の囁きは四方にひろがり、人の運不運は知れぬもの、除夜の鐘を聞きながら身代あらわれ、せっかくの三年の苦心も水の泡《あわ》、さすがの智者も矢弾《やだま》つづかず、わずか銀一粒で大長者の万屋ぐゎらりと破産。
[#地から2字上げ](日本永代蔵、巻五の五、三匁五分|曙《あけぼの》のかね)
[#改ページ]
裸川
鎌倉山《かまくらやま》の秋の夕ぐれをいそぎ、青砥左衛門尉藤綱《あおとさえもんのじょうふじつな》、駒《こま》をあゆませて滑川《なめりがわ》を渡り、川の真中に於《お》いて、いささか用の事ありて腰の火打袋を取出し、袋の口をあけた途端に袋の中の銭十|文《もん》ばかり、ちゃぼりと川浪《かわなみ》にこぼれ落ちた。青砥、はっと顔色を変え、駒をとどめて猫背《ねこぜ》になり、川底までも射透さんと稲妻《いなずま》の如《ごと》く眼《め》を光らせて川の面を凝視《ぎょうし》したが、潺湲《せんかん》たる清流は夕陽《ゆうひ》を受けて照りかがやき、瞬時も休むことなく動き騒ぎ躍り、とても川底まで見透す事は出来なかった。青砥左衛門尉藤綱は、馬上に於いて身悶《みもだ》えした。川を渡る時には、いかなる用があろうとも火打袋の口をあけてはならぬと子々孫々に伝えて家憲にしようと思った。どうにも諦《あきら
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