なたはいつもお鼻や目尻の事を気にして自信が無く、何のかのと言って私を疑うので困ってしまいます、私が今更どこへ行くものですか、安心していらっしゃい、もしもお父さんが私をよそへやるようだったら私はこの家から逃げてもあなたのところへ行くつもり、女の一念、覚えていらっしゃい、という事なので次郎右衛門すこし笑い、しかし、まだまだ安心はならぬと無理に顔をしかめて、とにかくお題目と今は本気に日蓮様におすがりしたくなって、南無妙法蓮華経と大声でわめいて滅多矢鱈《めったやたら》に太鼓をたたく。
 お蘭はその翌《あく》る日、徳右衛門の居間に呼ばれて、本町|紙屋彦作《かみやひこさく》様と縁談ととのった、これも日蓮様のおみちびき、有難《ありがた》くとこしなえの祝言《しゅうげん》を結べ、とおごそかに言い渡せば、お蘭はぎょっとしたが色に出さず、つつしんで一礼して部屋から出て、それから飛ぶようにして二階に駈《か》け上り、一筆しめしまいらせ候《そうろう》、来たわよ、いよいよ決行の日が来たわよ、私は逃げるつもりです、今宵《こよい》のうちに迎えたのむ、拝む、としどろもどろに書き散らし、丁稚《でっち》に言いつけて隣町へ走らせ、次郎右衛門はその手紙をざっと一読してがたがた震え、台所へ行って水を飲み、ここが思案のしどころと座敷のまん中に大あぐらをかいてみたが、別に何の思案も浮ばず、立ち上って着物を着換え、帳場へ行ってあちこちの引出しを掻きまわし、番頭に見とがめられて、いやちょっと、と言い、何がしの金子《きんす》をそそくさと袂《たもと》にほうり込んで、もう眼に物が見えぬ気持で、片ちんばの下駄《げた》をはいて出て途中で気がついて、家へ引返すのもおそろしく、はきもの屋に立ち寄って、もうこれだけしかお金が無いのだと思うと、けちになって一ばん安い草履を買い、その薄っぺらな草履をはいて歩くとぺたぺたと裸足《はだし》で地べたを歩いているような感じで心細く、歩きながら男泣きに泣いて、ようやく隣町の徳右衛門の家の裏口にたどりつくと、矢のようにお蘭は走り出て、ものも言わず次郎右衛門の手を取りさっさと自分からさきに歩き出し、次郎右衛門はあんまの如く手をひかれて、ぺたぺたと歩いて、またも大泣きに泣くのである。ここまでは、分別浅い愚かな男女の、取るにも足らぬふざけた話であるが、もちろん物語はここで終らぬ。世の中の厳粛な労苦は、このさきにあるようだ。
 二人は、その夜のうちに七里歩み、左方に博多《はかた》の海が青く展開するのを夢のように眺《なが》めて、なおも飲まず食わず、背後に人の足音を聞くたびに追手かと胆《きも》をひやし、生きた心地《ここち》も無くただ歩きに歩いて蹌踉《そうろう》とたどりついたところは其《そ》の名も盛者必衰《じょうしゃひっすい》、是生滅法《ぜしょうめっぽう》の鐘が崎、この鐘が崎の山添の野をわけて次郎右衛門のほのかな知合いの家をたずね、案の如く薄情のあしらいを受けて、けれどもそれも無理のない事と我慢して、ぶしつけながら、とお金を紙に包んで差し出し、その日は、納屋《なや》に休ませてもらい、浅間しき身のなりゆきと今はじめて思い当って青く窶《やつ》れた顔を見合せて溜息《ためいき》をつき、お蘭は、手飼いの猿《さる》の吉兵衛の背を撫《な》でながら、やたらに鼻をすすり上げた。この吉兵衛という名の猿は、小猿の頃からお蘭に可愛《かわい》がられて育ち、娘が男と一緒にひたすら夜道を急ぐ後を慕ってついて来て、一里あまり過ぎた頃、お蘭が見つけて叱《しか》って追っても、石を投げて追ってもひょこひょこついて来て、次郎右衛門は不憫《ふびん》に思い、せっかく慕って来たのだから仲間にいれておやり、と言い、お蘭は、おいで、と手招きすれば、うれしそうに駈け寄って来て、お蘭に抱かれて眼をぱちぱちさせて二人の顔を気の毒そうに眺める。いまはもう二人の忠義な下僕《げぼく》になりすまして、納屋へ食事を持ちはこぶやら、蠅《はえ》を追うやら、櫛《くし》でお蘭のおくれ毛を掻《か》き上げてやるやら、何かと要らないお手伝いをして、二人の淋《さび》しさを慰めてやろうと畜生ながら努めている。いかに世を忍ぶ身とは言え、いつまでも狭い納屋に隠れて暮しているわけにも行かず、次郎右衛門はさらに所持のお金の大半を出してその薄情の知合いの者にたのみ、すぐ近くの空地に見すぼらしい庵《いおり》を作ってもらい、夫婦と猿の下僕はそこに住み、わずかな土地を耕して、食膳《しょくぜん》に供するに足るくらいの野菜を作り、ひまひまに亭主《ていしゅ》は煙草《たばこ》を刻み、お蘭は木綿の枷《かせ》というものを繰って細々と渡世し、好きもきらいも若い一時の阿呆《あほ》らしい夢、親にそむいて家を飛び出し連添ってみても、何の事はない、いまはただありふれた貧乏|世帯《じょたい》の、と
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