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貧の意地
むかし江戸品川、藤茶屋《ふじぢゃや》のあたり、見るかげも無き草の庵《いおり》に、原田内助というおそろしく鬚《ひげ》の濃い、眼《め》の血走った中年の大男が住んでいた。容貌《ようぼう》おそろしげなる人は、その自身の顔の威厳にみずから恐縮して、かえって、へんに弱気になっているものであるが、この原田内助も、眉《まゆ》は太く眼はぎょろりとして、ただものでないような立派な顔をしていながら、いっこうに駄目《だめ》な男で、剣術の折には眼を固くつぶって奇妙な声を挙げながらあらぬ方に向って突進し、壁につきあたって、まいった、と言い、いたずらに壁破りの異名を高め、蜆《しじみ》売りのずるい少年から、嘘《うそ》の身上噺《みのうえばなし》を聞いて、おいおい声を放って泣き、蜆を全部買いしめて、家へ持って帰って女房《にょうぼう》に叱《しか》られ、三日のあいだ朝昼晩、蜆ばかり食べさせられて胃痙攣《いけいれん》を起して転輾《てんてん》し、論語をひらいて、学而《がくじ》第一、と読むと必ず睡魔に襲われるところとなり、毛虫がきらいで、それを見ると、きゃっと悲鳴を挙げて両手の指をひらいてのけぞり、人のおだてに乗って、狐《きつね》にでも憑《つ》かれたみたいにおろおろして質屋へ走って行って金を作ってごちそうし、みそかには朝から酒を飲んで切腹の真似《まね》などして掛取《かけと》りをしりぞけ、草の庵も風流の心からではなく、ただおのずから、そのように落ちぶれたというだけの事で、花も実も無い愚図の貧、親戚《しんせき》の持てあまし者の浪人であった。さいわい、親戚に富裕の者が二、三あったので、せっぱつまるとそのひとたちから合力《ごうりき》を得て、その大半は酒にして、春の桜も秋の紅葉も何が何やら、見えぬ聞えぬ無我夢中の極貧の火の車のその日暮しを続けていた。春の桜や秋の紅葉には面《おもて》をそむけて生きても行かれるだろうが、年にいちどの大みそかを知らぬ振りして過す事だけはむずかしい。いよいよことしも大みそかが近づくにつれて原田内助、眼つきをかえて、気違いの真似などして、用も無い長刀をいじくり、えへへ、と怪しく笑って掛取りを気味悪がせ、あさっては正月というに天井の煤《すす》も払わず、鬚もそらず、煎餠蒲団《せんべいぶとん》は敷きっ放し、来るなら来い、などあわれな言葉を譫語《うわごと》の如《ごと》く力無く呟《つぶや》き、またしても、えへへ、と笑うのである。まいどの事ながら、女房はうつつの地獄の思いに堪《た》えかね、勝手口から走り出て、自身の兄の半井清庵《なからいせいあん》という神田明神《かんだみょうじん》の横町に住む医師の宅に駈《か》け込み、涙ながらに窮状を訴え、助力を乞《こ》うた。清庵も、たびたびの迷惑、つくづく呆《あき》れながらも、こいつ洒落《しゃれ》た男で、「親戚にひとりくらい、そのような馬鹿《ばか》がいるのも、浮世の味。」と笑って言って、小判十枚を紙に包み、その上書《うわがき》に「貧病の妙薬、金用丸《きんようがん》、よろずによし。」と記して、不幸の妹に手渡した。
女房からその貧病の妙薬を示されて、原田内助、よろこぶかと思いのほか、むずかしき顔をして、「この金は使われぬぞ。」とかすれた声で、へんな事を言い出した。女房は、こりゃ亭主《ていしゅ》もいよいよ本当に気が狂ったかと、ぎょっとした。狂ったのではない。駄目な男というものは、幸福を受取るに当ってさえ、下手くそを極めるものである。突然の幸福のお見舞いにへどもどして、てれてしまって、かえって奇妙な屁理窟《へりくつ》を並べて怒ったりして、折角の幸福を追い払ったり何かするものである。
「このまま使っては、果報負けがして、わしは死ぬかも知れない。」と、内助は、もっともらしい顔で言い、「お前は、わしを殺すつもりか?」と、血走った眼で女房を睨《にら》み、それから、にやりと笑って、「まさか、そのような夜叉《やしゃ》でもあるまい。飲もう。飲まなければ死ぬであろう。おお、雪が降って来た。久し振りで風流の友と語りたい。お前はこれから一走りして、近所の友人たちを呼んで来るがいい。山崎、熊井《くまい》、宇津木、大竹、磯《いそ》、月村、この六人を呼んで来い。いや、短慶|坊主《ぼうず》も加えて、七人。大急ぎで呼んで来い。帰りは酒屋に寄って、さかなは、まあ、有合せでよかろう。」なんの事は無い。うれしさで、わくわくして、酒を飲みたくなっただけの事なのであった。
山崎、熊井、宇津木、大竹、磯、月村、短慶、いずれも、このあたりの長屋に住んでその日暮しの貧病に悩む浪人である。原田から雪見酒の使いを受けて、今宵《こよい》だけでも大みそかの火宅《かたく》からのがれる事が出来ると地獄で仏の思い、紙衣《かみこ》の皺
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