の大事の如《ごと》く騒いで汗も拭《ふ》かず矢鱈《やたら》にもみ合って、稼業《かぎょう》も忘れ、家へ帰ると、人一倍大めしをくらって死んだようにぐたりと寝てしまう。かねて力自慢の才兵衛、どうして之《これ》を傍観し得べき。椴子のまわしを締め込んで、土俵に躍り上って、さあ来い、と両手をひろげて立ちはだかれば、皆々、才兵衛の幼少の頃からの馬鹿力《ばかぢから》を知っているので、にわかに興覚めて、そそくさと着物を着て帰り仕度をする者もあり、若旦那《わかだんな》、およしなさい、へへ、ご身分にかかわりますよ、とお世辞だか忠告だか非難だか、わけのわからぬ事を人の陰に顔をかくして小声で言う者もあり、その中に、上方からくだって来た鰐口《わにぐち》という本職の角力、上方では弱くて出世もできなかったが田舎へ来ればやはり永年たたき込んだ四十八手がものを言い在郷《ざいごう》の若い衆の糞力《くそぢから》を軽くあしらっている男、では一番、と平気で土俵にあがって、おのれと血相変えて飛び込んで来る才兵衛の足を払って、苦もなく捻《ね》じ伏せた。才兵衛は土俵のまんなかに死んだ蛙《かえる》のように見っともなく這《は》いつくばって夢のような気持、実に不思議な術もあるものだと首を振り、間抜けた顔で起き上って、どっと笑い囃《はや》す観衆をちょっと睨《にら》んで黙らせ、腹が痛い、とてれ隠しのつまらぬ嘘《うそ》をついて家へ帰って来たが、くやしくてたまらぬ。鶏を一羽ひねりつぶして煮て骨ごとばりばり食って力をつけて、その夜のうちに鰐口の家へたずねて行き、さきほどは腹が痛かったので思わぬ不覚をとったが、今度は負けぬ、庭先で一番やって見よう、と申し出た。鰐口は晩酌《ばんしゃく》の最中で、うるさいと思ったが、いやにしつこく挑《いど》んで来るので着物を脱いで庭先に飛び降り、突きかかって来る才兵衛の巨躯《きょく》を右に泳がせ左に泳がせ、自由自在にあやつれば、才兵衛次第に目まいがして来て庭の松の木を鰐口と思い込み、よいしょと抱きつき、いきせき切って、この野郎と叫んで、苦も無く引き抜いた。
「おい、おい、無茶をするな。」鰐口もさすがに才兵衛の怪力に呆《あき》れて、こんなものを永く相手にしていると、どんな事になるかもわからぬと思い、縁側にあがってさっさと着物を着込んで、「小僧、酒でも飲んで行け。」と懐柔の策に出た。
 才兵衛は松の木を引き抜いて目よりも高く差し上げ、ふと座敷の方を見ると、鰐口が座敷で笑いながらお酒を飲んでいるので、ぎょっとして、これは鬼神に違いないと幼く思い込み、松の木も何も投げ捨て庭先に平伏し、わあと大声を挙げて泣いて弟子にしてくれよと懇願した。
 才兵衛は鰐口を神様の如くあがめて、その翌日から四十八手の伝授にあずかり、もともと無双の大力ゆえ、その進歩は目ざましく、教える鰐口にも張合いが出て来るし、それにもまして、才兵衛はただもう天にも昇る思いで、うれしくてたまらず、寝ても覚めても、四十八手、四十八手、あすはどの手で投げてやろうと寝返り打って寝言《ねごと》を言い、その熱心が摩利支天《まりしてん》にも通じたか、なかなかの角力上手になって、もはや師匠の鰐口も、もてあまし気味になり、弟子に投げられるのも恰好《かっこう》が悪く馬鹿々々しいと思い、或《あ》る日もっともらしい顔をして、汝《なんじ》も、もう一人前の角力取りになった、その心掛けを忘れるな、とわけのわからぬ訓戒を垂れ、ついては汝に荒磯《あらいそ》という名を与える、もう来るな、と言っていそいで敬遠してしまった。才兵衛は師匠から敬遠されたとも気附《きづ》かず、わしもいよいよ一人前の角力取りになったか、ありがたいわい、きょうからわしは荒磯だ、すごい名前じゃないか、ああまことに師の恩は山よりも高い、と涙を流してよろこび、それからは、どこの土俵に於《お》いても無敵の強さを発揮し、十九の時に讃岐の大関天竺仁太夫を、土俵の砂に埋めて半死半生にし、それほどまで手ひどく投げつけなくてもいいじゃないかと角力仲間の評判を悪くしたが、なあに、角力は勝ちゃいいんだ、と傲然《ごうぜん》とうそぶき、いよいよ皆に憎まれた。丸亀屋の親爺《おやじ》は、かねてよりわが子の才兵衛の力自慢をにがにがしく思い、何とか言おうとしても、才兵衛にぎょろりと睨まれると、わが子ながらも気味悪く、あの馬鹿力で手向いされたら親の威光も何もあったものでない、この老いの細い骨は木《こ》っ葉《ぱ》微塵《みじん》、と震え上って分別し直し、しばらく静観と自重していたのだが、このごろは角力に凝って他人様《ひとさま》を怪我《けが》させて片輪にして、にくしみの的になっている有様を見るに見かねて、或る日、おっかなびっくり、
「才兵衛さんや、」わが子にさんを附けて猫撫声《ねこなでごえ》で呼び、「人は神代《かみよ
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