いい髪をもったいない、ちゃんと綺麗《きれい》に結って、おちめを人に見せないところが女房の働き。正月の塩鮭《しおざけ》もわしの家で三本買って置いたから、一本すぐにとどけさせます。笑う門には福が来る。どうも、この家は陰気でいけねえ。さあ、雨戸をみんなあけて、ことしの家中の塵芥《ちりあくた》をさっぱりと掃き出して、のんきに福の神の御入来を待つがよい。万事はわしたちが引受けました。」と景気のいい事ばかり言い、それから近所の職人仲間と相談の上、われひと共にいそがしき十二月二十六日の夜、仲間十人おのおの金子《きんす》十両と酒肴《しゅこう》を携え、徳兵衛の家を訪れ、一升|桝《ます》を出させて、それに順々に十両ずつばらりばらりと投げ入れて百両、顔役のひとりは福の神の如《ごと》く陽気に笑い、徳兵衛さん、ここに百両あります、これをもとでに千両かせいでごらんなさい、と差し出せば、またひとりの顔役は、もっともらしい顔をして桝を神棚《かみだな》にあげ、ぱんぱんと拍手《かしわで》を打ち、えびす大黒にお願い申す、この百両を見覚え置き、利に利を生ませて来年の暮には百倍千倍にしてまたこの家に立ち戻《もど》らせ給《たま》え、さもなくば、えびす大黒もこの金横領のとがにんとして縄《なわ》を打ち、川へ流してしまいます、と言えば、また大笑いになり、職人仲間の情愛はまた格別、それより持参の酒肴にて年忘れの宴、徳兵衛はうれしく、意味も無く部屋中をうろうろ歩きまわり重箱を蹴飛《けと》ばし、いよいよ恐縮して、あちらこちらに矢鱈《やたら》にお辞儀して廻《まわ》り、生れてはじめて二合以上の酒を飲ませてもらい、とうとう酔い泣きをはじめ、他の職人たちも、人を救ったというしびれるほどの興奮から、ふだん一滴も酒を口にせぬ人まで、ぐいぐいと飲み酒乱の傾向を暴露して、この酒は元来わしが持参したものだ、飲まなければ損だ、などとまことに興覚めないやしい事まで口走り、いきな男は、それを相手にせず、からだを前後左右にゆすぶって小唄《こうた》をうたい、鬚面《ひげづら》の男は、声をひそめて天下国家の行末を憂《うれ》い、また隅《すみ》の小男は、大声でおのれの織物の腕前を誇り、他のやつは皆へたくそ也《なり》とののしり、また、頬被《ほおかぶ》りして壁塗り踊りと称するへんてつも無い踊りを、誰《だれ》も見ていないのに、いやに緊張して口をひきしめいつまでも呆《あき》れるほど永く踊りつづけている者もあり、また、さいぜんから襖《ふすま》によりかかって、顔面|蒼白《そうはく》、眼《め》を血走らせて一座を無言で睨《にら》み、近くに坐《すわ》っている男たちを薄気味悪がらせて、やがて、すっくと立ち上ったので、すわ喧嘩《けんか》と驚き制止しかかれば、男は、ううと呻《うめ》いて廊下に走り出て庭先へ、げえと吐いた。酒の席は、昔も今も同じ事なり、しまいには、何が何やら、ただわあとなって、骨の無い動物の如く、互いに背負われるやら抱かれるやら、羽織を落し、扇子を忘れ、草履《ぞうり》をはきちがえて、いや、めでたい、めでたい、とうわごとみたいに言いながらめいめいの家へ帰り、あとには亭主《ていしゅ》ひとり、大風の跡の荒野に伏せる狼《おおかみ》の形で大鼾《おおいびき》で寝て、女房は呆然《ぼうぜん》と部屋のまんなかに坐り、とにかく後片附けは明日と定め、神棚の桝を見上げては、うれしさ胸にこみ上げ、それにつけても戸じまりは大事と立って、家中の戸をしめて念いりに錠《じょう》をおろし、召使い達をさきに寝かせて、それから亭主の徳兵衛を静かにゆり起し、そんな大鼾で楽寝をしている場合ではありません、ご近所の有難《ありがた》いお情を無にせぬよう、今夜これから、ことしの諸払いの算用を、ざっとやって見ましょう、と大福帳やら算盤《そろばん》を押しつければ、亭主は眼をしぶくあけて、泥酔《でいすい》の夢にも債鬼に苦しめられ、いまふっと眼がさめると、われは百両の金持なる事に気附いて、勇気百千倍、むっくり起き上り、
「よし来た、算盤よこせ、畜生め、あの米屋の八右衛門《はちえもん》は、わしの先代の別家なのに、義理も恩も人情も忘れて、どこよりもせわしく借りを責め立てやがって、おのれ、今に見ろと思っていたが、畜生め、こんど来たら、あの皺面《しわづら》に小判をたたきつけて、もう来年からは、どんなにわしにお世辞を言っても、聞かぬ振りして米は八右衛門の隣りの与七の家から現金で買って、帰りには、あいつの家の前で小便でもして来る事だ。とにかく、あの神棚の桝をおろせ。久しぶりで山吹の色でも拝もう。」と大あぐらで威勢よく言い、女房もいそいそと立って神棚から一升桝をおろして見ると、桝はからっぽ、一枚の小判も無い。夫婦は仰天して、桝をさかさにしたり叩《たた》いてみたり、そこら中を這《は》い廻ってみたり、
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