さしかかった頃から豪雨となって途中の菊川も氾濫《はんらん》し濁流は橋をゆるがし道を越え、しかも風さえ加って松籟《しょうらい》ものすごく、一行の者の袖合羽《そでがっぱ》の裾《すそ》吹きかえされて千切れんばかり、這《は》うようにして金谷《かなや》の宿にたどりつき、ここにて人数をあらため一行無事なるを喜び、さて、これから名高い難所の大井川を越えて島田の宿に渡らなければならぬのだが、式部は大井川の岸に立って川の気色を見渡し、
「水かさ刻一刻とつのる様子なれば、きょうはこの金谷の宿に一泊。」とお供の者どもに言いつけた。
けれども、乱暴者の若殿には、式部のこの用心深い処置が気にいらなかった。川を眺めてせせら笑い、
「なんだ、これがあの有名な大井川か。淀川《よどがわ》の半分も無いじゃないか。国元の猪名川《いながわ》よりも武庫川《むこがわ》よりも小さいじゃないか。のう、蛸。これしきの川が渡れぬなんて、式部も耄碌《もうろく》したようだ。」
「いかにも、」と蛸は神崎親子を横目で見てにやりと笑い、「私などは国元の猪名川を幼少の頃より毎日のように馬で渡ってなれて居りますので、こんな小さい川が、たといどんなに水を増してもおそろしいとは思いませぬが、しかし、生れつき水癲癇《みずてんかん》と申して、どのように弓馬の武芸に達していても、この水を見るとおそろしくぶるぶる震えるという奇病があって、しかもこれは親から子へ遺伝するものだそうで。」
若殿は笑って、
「奇妙な病気もあるものだ。まさか式部は、その水癲癇とやらいう病気でもあるまいが、どうだ、蛸め、われら二人抜け駈《が》けてこの濁流に駒《こま》をすすめ、かの宇治川《うじがわ》先陣、佐々木と梶原《かじわら》の如《ごと》く、相競って共に向う岸に渡って見せたら、臆病《おくびょう》の式部はじめ供の者たちも仕方なく後からついて来るだろう。なんとしてもきょうのうちに、この大井川を渡って島田の宿に着かなければ、西国武士の名折れだぞ。蛸め、つづけ。」と駒に打ち乗り、濁流めがけて飛び込もうとするので式部もここは必死、篠《しの》つく雨の中を蓑《みの》も笠《かさ》もほうり投げて若殿の駒の轡《くつわ》に取り縋《すが》り、
「おやめなさい、おやめなさい。式部かねて承るに大井川の川底の形状変転常なく、その瀬その淵《ふち》の深浅は、川越しの人夫さえ踏違《ふみたが》えることしばしば有りとの事、いわんや他国のわれら、抜山《ばつざん》の勇ありといえども、血気だけでは、この川渡ることむずかしく、式部はきょう一日、その水癲癇とやら奇病にでも何にでも相成りますから、どうか式部の奇病をあわれに思召《おぼしめ》して、川を越える事はあすになさって下さい。」と涙を流して懇願した。
まことの臆病者の丹三郎は、口ではあんな偉そうな事を言ったものの、蛸め、つづけ! と若殿に言われた時には、くらくらと眩暈《めまい》がして、こりゃもうどうしようと、うろうろしたが、式部が若殿をいさめてくれたので、ほっとして、真青な顔に奇妙な笑いを無理に浮べ、「ちえ、残念。」と言った。
それがいけなかった。その出鱈目《でたらめ》の言葉が若殿の気持をいっそう猛《たけ》り立たせた。
「蛸め。式部は卑怯《ひきょう》だ。かまわぬ、つづけ!」と式部の手のゆるんだすきを見て駒に一鞭《ひとむち》あて、暴虎馮河《ぼうこひょうが》、ざんぶと濁流に身をおどらせた。式部もいまはこれまでと観念し、
「それ! 若殿につづけ。」とお供の者たちに烈《はげ》しく下知した。いずれも屈強の供の武士三十人、なんの躊躇《ちゅうちょ》も無くつぎつぎと駒を濁流に乗り入れ、大浪《おおなみ》をわけて若殿のあとを追った。
岸には、丹三郎と跡見役の式部親子とが残った。丹三郎は、ぶるぶる震えながら勝太郎の手を固く握り、
「若殿は野暮だ。思いやりも何も無い。おれは実は馬は何よりも苦手なのだ。何もかも目茶苦茶だ。」と泣くような声で訴えた。
式部は静かにあたりを見廻し、跡に遺漏のものの無きを見とどけ、さて、丹三郎に向い、
「これも皆、あなたの言葉から起った難儀です。でもまあいまは、そんな事を言っていたって仕様がありません。すぐに若殿の後を追いましょう。わしたちは果して生きて向う岸に行き着けるかどうか、この大水では、心もとない。けれども、わしは国元を出る時、あなたの親御の丹後どのから、丹三郎儀はまだほんの子供、しかも初旅の事ゆえ、諸事よろしくたのむと言われました。その一言が忘れかね、わしはきょうまで我慢に我慢を重ねて、あなたの世話を見て来ました。いまこの濁流を渡って、あなたの身にもしもの事があったなら、きょうまでのわしの苦労もそれこそ水の泡《あわ》になります。馬は一ばん元気のいいのを、あなたのために取って置きました。せがれの勝太郎を先に
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