い、
「さいぜん、そなたの店から受け取ったお金の中に一粒、贋《にせ》の銀貨がまじっていた。取かえていただきたい。」と小粒銀一つ投げ出す。
「は。」と言って立ち上ったが、銀一粒どころか、一文だって無い。「それはどうも相すみませんでしたが、もう店をしまいましたから、来年にしていただけませんか。」と明るく微笑《ほほえ》んで何気なさそうに言う。
「いや、待つ事は出来ぬ。まだ除夜の鐘のさいちゅうだ。拙者も、この金でことしの支払いをしなければならぬ。借金取りが表に待っている。」
「困りましたなあ。もう店をしまって、お金はみな蔵の中に。」
「ふざけるな!」と浪人は大声を挙げて、「百両千両のかねではない。たかが銀一粒だ。これほどの家で、手許《てもと》に銀一粒の替《かえ》が無いなど冗談を言ってはいけない。おや、その顔つきは、どうした。無いのか。本当に無いのか。何も無いのか。」と近隣に響きわたるほどの高声でわめけば、店の表に待っている借金取りは、はてな? といぶかり、両隣りの左官屋、炭屋も、耳をすまし、悪事千里、たちまち人々の囁きは四方にひろがり、人の運不運は知れぬもの、除夜の鐘を聞きながら身代あらわれ、せっかくの三年の苦心も水の泡《あわ》、さすがの智者も矢弾《やだま》つづかず、わずか銀一粒で大長者の万屋ぐゎらりと破産。
[#地から2字上げ](日本永代蔵、巻五の五、三匁五分|曙《あけぼの》のかね)
[#改ページ]

   裸川

 鎌倉山《かまくらやま》の秋の夕ぐれをいそぎ、青砥左衛門尉藤綱《あおとさえもんのじょうふじつな》、駒《こま》をあゆませて滑川《なめりがわ》を渡り、川の真中に於《お》いて、いささか用の事ありて腰の火打袋を取出し、袋の口をあけた途端に袋の中の銭十|文《もん》ばかり、ちゃぼりと川浪《かわなみ》にこぼれ落ちた。青砥、はっと顔色を変え、駒をとどめて猫背《ねこぜ》になり、川底までも射透さんと稲妻《いなずま》の如《ごと》く眼《め》を光らせて川の面を凝視《ぎょうし》したが、潺湲《せんかん》たる清流は夕陽《ゆうひ》を受けて照りかがやき、瞬時も休むことなく動き騒ぎ躍り、とても川底まで見透す事は出来なかった。青砥左衛門尉藤綱は、馬上に於いて身悶《みもだ》えした。川を渡る時には、いかなる用があろうとも火打袋の口をあけてはならぬと子々孫々に伝えて家憲にしようと思った。どうにも諦《あきら
前へ 次へ
全105ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング