を譫語《うわごと》の如《ごと》く力無く呟《つぶや》き、またしても、えへへ、と笑うのである。まいどの事ながら、女房はうつつの地獄の思いに堪《た》えかね、勝手口から走り出て、自身の兄の半井清庵《なからいせいあん》という神田明神《かんだみょうじん》の横町に住む医師の宅に駈《か》け込み、涙ながらに窮状を訴え、助力を乞《こ》うた。清庵も、たびたびの迷惑、つくづく呆《あき》れながらも、こいつ洒落《しゃれ》た男で、「親戚にひとりくらい、そのような馬鹿《ばか》がいるのも、浮世の味。」と笑って言って、小判十枚を紙に包み、その上書《うわがき》に「貧病の妙薬、金用丸《きんようがん》、よろずによし。」と記して、不幸の妹に手渡した。
女房からその貧病の妙薬を示されて、原田内助、よろこぶかと思いのほか、むずかしき顔をして、「この金は使われぬぞ。」とかすれた声で、へんな事を言い出した。女房は、こりゃ亭主《ていしゅ》もいよいよ本当に気が狂ったかと、ぎょっとした。狂ったのではない。駄目な男というものは、幸福を受取るに当ってさえ、下手くそを極めるものである。突然の幸福のお見舞いにへどもどして、てれてしまって、かえって奇妙な屁理窟《へりくつ》を並べて怒ったりして、折角の幸福を追い払ったり何かするものである。
「このまま使っては、果報負けがして、わしは死ぬかも知れない。」と、内助は、もっともらしい顔で言い、「お前は、わしを殺すつもりか?」と、血走った眼で女房を睨《にら》み、それから、にやりと笑って、「まさか、そのような夜叉《やしゃ》でもあるまい。飲もう。飲まなければ死ぬであろう。おお、雪が降って来た。久し振りで風流の友と語りたい。お前はこれから一走りして、近所の友人たちを呼んで来るがいい。山崎、熊井《くまい》、宇津木、大竹、磯《いそ》、月村、この六人を呼んで来い。いや、短慶|坊主《ぼうず》も加えて、七人。大急ぎで呼んで来い。帰りは酒屋に寄って、さかなは、まあ、有合せでよかろう。」なんの事は無い。うれしさで、わくわくして、酒を飲みたくなっただけの事なのであった。
山崎、熊井、宇津木、大竹、磯、月村、短慶、いずれも、このあたりの長屋に住んでその日暮しの貧病に悩む浪人である。原田から雪見酒の使いを受けて、今宵《こよい》だけでも大みそかの火宅《かたく》からのがれる事が出来ると地獄で仏の思い、紙衣《かみこ》の皺
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