ましめになるかも知れねえ。」
「連れて行ってくれ。吉州にも逢いたい。」と吉郎兵衛は本音を吐いた。利左は薄気味悪い微笑を頬《ほお》に浮べて、
「見たら、あいそが尽きるぜ。」と言い、蹌踉《そうろう》と居酒屋を出た。
 谷中《やなか》の秋の夕暮は淋しく、江戸とは名ばかり、このあたりは大竹藪《おおたけやぶ》風にざわつき、鶯《うぐいす》ならぬむら雀《すずめ》の初音町《はつねちょう》のはずれ、薄暗くじめじめした露路を通り抜けて、額におしめの滴《しずく》を受け、かぼちゃの蔓《つる》を跨《また》ぎ越え、すえ葉も枯れて生垣《いけがき》に汚くへばりついている朝顔の実一つ一つ取り集めている婆《ばば》の、この種を植えてまた来年のたのしみ、と来年どころか明日知れぬ八十あまりらしい見るかげも無き老躯《ろうく》を忘れて呟いている慾《よく》の深さに、三人は思わず顔を見合せて呆《あき》れ、利左ひとりは、何ともない顔をして小腰をかがめ、婆さま、その朝顔の実を一つ二つわしの家へもわけて下さいまし、何だか曇ってまいりましていけませぬ、など近所のよしみ、有合せのつらいお世辞を言い、陰干しの煙草《たばこ》をゆわえた細縄《ほそなわ》の下をくぐって突き当りのあばらやの、窓から四歳の男の子が、やあれ、ととさまが、ぜぜ持ってもどらしゃった、と叫ぶもふびん、三人の足は一様に立ちすくんだ。利左は平気を装い、
「ここだ、この家だ。三人はいったら、坐《すわ》るところが無いぞ。」と笑い、「おい、お客さまだぞ。」と内儀に声を掛ければ、内より細き声して、
「そのお三人のうち、伊豆屋《いずや》吉郎兵衛さま、お帰り下さいまし。そのお方には昔お情にあずかった事がございます。」という。吉郎兵衛へどもどして、
「いや、それはお固い。昔の事はさらりと水に流して。」と言えば、利左も、くるしそうに笑い、
「そうだ、そうだ。長屋の嬶《かか》にお情もくそもあるものか。自惚《うぬぼれ》ちゃいけねえ。」とすさんだ口調で言い、がたぴし破戸《やれど》をあけて三人を招き入れ、「座蒲団《ざぶとん》なんて洒落たものはねえぞ。お茶くらいは出す。」
 女房《にょうぼう》は色青ざめ、ぼろの着物の裾《すそ》をそそくさと合せて横坐りに坐って乱れた髪を掻《か》き上げ、仰向いて三人の顔を見て少し笑い、
「まあ。」と小さい声で言ったきり、お辞儀をするのも忘れている。亭主《ていしゅ
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