。しかし、人を恨んで死ぬのは、地獄の種だ。お情の百両をわが身の油断から紛失した申しわけに死ぬのならば、わしにも覚悟はあるが。」
「理窟《りくつ》はどうだって、いいじゃないの。あたしは地獄へ落ちたっていい。恨み死を致します。こんなひどい仕打ちをされて、世間のもの笑いになってなお生き延びるなんて事はとても出来ません。」
「よし、もう言うな。死にやいいんだ。かりそめにも一夜の恩人たちを訴えるわけにもいかず、いや疑う事さえ不埒《ふらち》な事だ、さりとてこのまま生き延びる工夫もつかず、女房、何も言わずに、わしと一緒に死のうじゃないか。この世ではそなたにも苦労をかけたが、夫婦は二世と言うぞ。」
一寸さきは闇《やみ》の世の中、よろこびの宴の直後に、徳兵衛夫婦は死ぬる相談、二人の子供も、道づれと覚悟を極《き》め、女房は貧のうちにも長持の底に残してあった白小袖《しろこそで》に身を飾り、鏡に向い若い時から人にほめられた黒髪を撫《な》でつけながら、まことに十九年のなじみ此《こ》のあけぼのの夢と歎《なげ》き、気を取り直して二人の子供をしずかに引起せば、上の女の子は、かかさま、もうお正月か、と寝呆《ねぼ》け、下の男の子は、坊の独楽《こま》はきょう買ってくれるかと言う。夫婦は涙に目くらみ、ものも言えず、子供を仏壇の前に坐らせ、わななきわななき御燈明《おとうみょう》をあげ、親子四人、先祖の霊に手を合せて、いまはこれまでと思うところに、子守女どたばたと走り出て、二人の子供を左右にひしとかかえて頬ずりして、あんまりだ、あんまりだ、旦那《だんな》さまたちは何をなさるだ、われはさっきからお前様たちの話を残らず聞いていただ、死ぬならお前様たちだけで死ねばいいだ、こんな可愛《かわい》い坊ちゃま嬢ちゃまに何の罪とががあるだ、むごい親だ、あんまりだ、坊ちゃま嬢ちゃまは、おらがもらって育てるだ、死ぬならお前様たちだけでさっさと死ねばいいだ、とあたりはばからぬ大声で泣きわめいて、隣近所の人もその騒ぎに起き出して、夫婦の自害もうやむやになり、顔役はやがて事情を聞いて驚き、これは大事とひとり思案し、いかにも夫婦の言うとおり、あの夜われら十人のほか部屋に出入りした人は無し、小判が風に吹き飛んだという例も聞かず、まさかわれら腹黒くしめし合せ、あの夫婦をなぶりものにするなんてのは滅相《めっそう》も無い事、十人が十人とも義に
前へ
次へ
全105ページ中76ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング