から2字上げ](新可笑記《しんかせうき》、巻五の四、腹からの女追剥《をんなおひはぎ》)
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赤い太鼓
むかし都の西陣《にしじん》に、織物職人の家多く、軒をならべておのおの織物の腕を競い家業にはげんでいる中に、徳兵衛《とくべえ》とて、名こそ福徳の人に似ているが、どういうものか、お金が残らず胆《きも》を冷やしてその日暮し、晩酌《ばんしゃく》も二合を越えず、女房《にょうぼう》と連添うて十九年、他《ほか》の女にお酌をさせた経験も無く、道楽といえば、たまに下職《したしょく》を相手に将棋をさすくらいのもので、それもひまを惜しんで目まぐるしい早将棋一番かぎり、約束の仕事の日限を違《たが》えた事はいちども無く万事に油断せず精出して、女房も丈夫、子供も息災、みずからは二十《はたち》の時に奥歯一本虫に食われて三日病んだ他には病気というものを知らず、さりとてけちで世間の附《つ》き合いの義理を欠くというわけではなく職人仲間に律儀者《りちぎもの》の評判を取り、しかも神仏の信心深く、ひとつとして悪事なく、人生四十年を過して来たものの、どういうわけか、いつも貧乏で、世の中には貧乏性といってこのような不思議はままある事ながら、それにしても、徳兵衛ほどの善人がいつまでも福の神に見舞われぬとは、浮世にはわからぬ事もあるものだと、町内の顔役たちは女房に寝物語してひそかにわが家の内福に安堵《あんど》するというような有様であった。そのうちに徳兵衛の貧乏いよいよ迫り、ことしの暮は夜逃げの他に才覚つかず、しのびしのび諸道具売払うを、町内の顔役たちが目ざとく見つけ、永年のよしみ、捨て置けず、それとなく徳兵衛に様子を聞けば、わずか七、八十両の借金に首がまわらず夜逃げの覚悟と泣きながら言う。顔役は笑い、
「なんだ、たかが七、八十両の借金で、先代からのこの老舗《しにせ》をつぶすなんて法は無い。ことしの暮は万事わしたちが引受けますから、もう一度、まあ、ねばってみなさい。来年こそは、この身代《しんだい》にも一花咲かせて見せて下さい。子供さんにも、お年玉を奮発して、下職への仕着《しきせ》も紋無しの浅黄《あさぎ》にするといまからでも間に合いますから、お金の事など心配せず、まあ、わしたちに委《まか》せて、大船に乗った気で一つ思い切り派手に年越しをするんだね。お内儀も、そんな、めそめそしてないで、せっかくの
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