なんて、古今東西、どこを捜してもございませんでした、とお母さんに、そう伝えてくれ。愛は言葉だ。言葉が無くなれや、同時にこの世の中に、愛情も無くなるんだ。愛が言葉以外に、実体として何かあると思っていたら、大間違いだ。聖書にも書いてあるよ。言葉は、神と共に在り、言葉は神なりき、之《これ》に生命《いのち》あり、この生命《いのち》は人の光なりき、と書いてあるからお母さんに読ませてあげるんだね。」
オフ。「いいえ、決して王妃さまから教えられて申し上げているのではございません。あたしは、あたしの思っていることを、精一ぱいに申し上げているだけなのです。ハムレットさま、あなたは、おそろしい事をおっしゃいます。もし愛情が、言葉以外に無いものだとしたなら、あたしは、愛情なんかつまらないものだと思います。そんなものは、いっそ無いほうがよい。ただ世の中を、わずらわしくするだけです。あたしには、どうしても、ハムレットさまのおっしゃる事は、信じられません。神さまが、居ります。神さまは、黙っていて、そうして皆を愛して居ります。神さまは、おまえを好きだ! なんて、決して叫びはいたしません。けれども、神さまは愛して居ります。みんなを、森を、草も、花も、河も、娘も、おとなも、悪い人も、みんなを一様に、黙って愛して下さいます。」
ハム。「おさない事を言っている。君の信仰しているものは、それは邪教の偶像だ。神さまは、ちゃんと言葉を持って居られる。考えてごらん。一ばんはじめ僕たちに、神さまの存在を、はっきり教えてくれたものは、なんだろう。言葉じゃないか。福音《ふくいん》じゃないか。キリストは、だから、――おや、叔父さんが、多勢の侍者を引きつれて、血相かえてやって来た。きょう、此の大広間で、何か儀式でもあるのかしら。ここは、ふだんめったに使わない部屋だから、オフィリヤとこっそり逢うのに適当だと思って、ちょいちょいオフィリヤを、ここへ呼び出す事にしていたのだが、こんな不意の事もあるから油断が出来ない。オフィリヤ、さあ、そこのドアから早く逃げ出せ。議論は、この次にまた、ゆっくりしよう。これからは、いろいろ教育してあげる。そうだ、そのドアだ。なんて素早い奴だ。風のように逃げちゃった。恋は女を軽業師にするらしい、とは、まずい洒落《しゃれ》だ。」
王。侍者多勢。ハムレット。
王。「ああ、ハムレット。はじまりましたよ。戦争が、はじまりましたよ。レヤチーズの船が、犠牲になりました。ただいま知らせが、はいりました。レヤチーズたちの乗って行った船が、カテガット海峡に、さしかかると、いずこからともなく、ノーウエーの軍艦が忽然《こつぜん》と姿をあらわし、矢庭《やにわ》に発砲したという。こちらは商船、たまったものでない。けれども、レヤチーズは勇敢であった。おびえる船員を叱咤《しった》し、激励し、みずからは上甲板に立って銃を構え、弾丸《たま》のあるかぎり撃ちまくったのです。敵の砲弾は、わがマストに命中し、たちまち帆がめらめら燃え上った。さらに一弾は船腹に命中し、鈍い音をたてて炸裂《さくれつ》し、ぐらりと船は傾いて、もはや窮した。この時、レヤチーズは、はじめてボートの支度《したく》を下知《げち》して、四、五の船客をまずボートに抱き乗せ、つぎに船員の、妻子のある者にも避難を命じ、自分は屈強のいのち知らずの若い船員五、六名と共に船に居残り、おのおの剣を抜いて敵兵の襲来を待機した。一兵といえども祖国の船に寄せつけじと、レヤチーズは死ぬる覚悟、ヘラクレスの如《ごと》く泰然自若たるものがあったという。敵艦の者も此の勇者の姿を望見し、おじ恐れて、ただ、わが帆船のまわりをうろつき、そのおのずから炎上し沈没するのを待つより他《ほか》はなかったのだ。レヤチーズは、悲壮にも船と運命を共にしたのです。惜しい男だ。父に似ぬ、まことの忠臣、いや、父の名を恥ずかしめぬ天晴《あっぱ》れの勇者です。わしたちは、レヤチーズの赤心に報いなければならぬ。いまは、デンマークも立つべき時です。ノーウエーとの永年の不和が、とうとう爆発したのです。わしは、けさその急報に接し、ただちに、決意しました。神は正義に味方をします。戦えば、わがデンマークは必ず勝ちます。なに、前から機会をねらっていたのだ。レヤチーズは、尊い犠牲になってくれました。父子《おやこ》そろって、いや、レヤチーズの霊は必ず手厚く祭ってやろう。それが国王としてのわしの義務だ。」
ハム。「レヤチーズ。僕と同じ、二十三歳。竹馬の友。少し頑固で怒りっぽく、僕には少し苦手だったが、でも、いい奴だった。死んだのか? オフィリヤが聞いたら卒倒するだろう。ここにいなくて、さいわいだった。レヤチーズ。その身に箔《はく》をつけるため、将来のおのれの出世に備えるため、フランスに遊学の途端に、降って湧《わ》いた災難、その時とっさに自分の野望をからりと捨て、デンマーク国の名誉を守るために、一身を犠牲にして悔いる色が無かった。僕は、負けたよ。レヤチーズ。君は、僕をきらいだったね。僕だって、君を好いてはいなかった。オフィリヤの事が起ってからは、君を恐怖さえしていた。僕たちは、幼い時から、はげしい競争をして来た。好敵手だった。表面は微笑《ほほえ》み合いながらも、互いに憎んでいた。僕には、君が邪魔だったよ。けれども、君は、やっぱり、偉いやつだ。父上、――」
王。「はじめて、父上と呼んでくれましたね。さすがに、デンマーク国の王子です。国の運命のためには、すべての私情を捨てましょう。本日これから、この広間に群臣を集めて重大の布告をいたします。ハムレット、立派な将軍振りを見せて下さい。」
ハム。「いいえ、弱い一兵卒になりましょう。僕は、レヤチーズに負けました。ポローニヤスは、どうしていますか? あの人の胸中にも、悲痛なものがあるでしょうね。」
王。「それは、もちろんの事です。わしは、充分になぐさめてやるつもりで居《お》ります。さて、王妃は、いったい、どうしたのでしょう。けさから姿が見えぬのです。いま、ホレーショーに捜させているのですが、君は、見かけませんでしたか? きょうの布告の式には、王妃も列席してないと、具合がわるい。やっぱり、こんな時には、ポローニヤスがいないと不便ですね。」
ハム。「では、ポローニヤスは? もう、此の城にいないのですか? どこかへ出発したのですか? 叔父さん、そんなに顔色を変えてどうしたのです。」
王。「どうもしやしません。このデンマーク国、興廃の大事な朝に、ポローニヤス一個人の身の上などは、問題になりません。そうでしょう? わしは、はっきり言いますが、ポローニヤスは、いまこの城にいないのです。あれは不忠の臣です。もっとくわしい事情は、いまは、言うべき時ではない。いずれ、よい機会に、堂々と、包みかくさず発表します。」
ハム。「何か、あったな? ゆうべ、何かあったな? 叔父さんの、あわてかたは、戦争の興奮ばかりでも無いようだ。僕も、うっかり、レヤチーズの壮烈な最後に熱狂し、身辺の悶着《もんちゃく》を忘れていた。叔父さんは、御自分のうしろ暗さを、こんどの戦争で、ごまかそうとしているのかも知れぬ。案外、これは、――」
王。「何を、ひとりでぶつぶつ言っているのです。ハムレット! 君は、馬鹿だ! 大馬鹿だ! ふざけるのも、いい加減にし給《たま》え。戦争は冗談や遊戯ではないのだ。このデンマークで、いま不真面目《ふまじめ》なのは君だけだ。君が、それほど疑うなら、わしも、むきになって答えてあげる。ハムレット、あの城中の噂《うわさ》は、事実です。いや、わしが、先王を毒殺したというのは、あやまり。わしには、ただ、それを決意した一夜があった、それだけだ。先王は、急に病気でなくなられた。ハムレット、君は、それでもわしを、罰する気ですか? 恋のためだ。くやしいが、まさに、それだ。ハムレット、さあ、わしは全部を言いました。君は、わしを、罰するつもりですか?」
ハム。「神さまに、おたずねしたらいいでしょう。ああ、お父さん! いいえ、叔父さん、あなたじゃない。僕には、僕のお父さんが、あったのだ。可哀想《かわいそう》なお父さん。きたない裏切者の中で、にこにこ笑って生きていたお父さん。裏切者は、この、とおり!」
王。「あ! ハムレット、気が狂ったか。短剣引き抜き、振りかざすと見るより早く、自分自身の左の頬《ほお》を切り裂いた。馬鹿なやつだ。それ、血が流れて汚い。それは一体、なんの芝居だ。わしを切るのかと思ったら、くるりと切先《きっさき》をかえて自分自身の頬に傷をつけ居った。自殺の稽古《けいこ》か、新型の恐喝《きょうかつ》か。オフィリヤの事なら、心配せんでもよいのに、馬鹿な奴だ。君が凱旋《がいせん》した時には、必ず添わしてあげるつもりだ。泣く事はない。戦争がはじまれば、君も一方の指揮者なのです。そんなに泣いては、部下の信頼を失いますよ。ああ、それ、上衣《うわぎ》にまで血が流れて来た。誰かハムレットを、向うへ連れて行って、手当をしてあげなさい。戦争の興奮で、気がへんになったのかも知れぬ。意気地《いくじ》の無い奴だ。おお、ホレーショー、何事です。」
ホレーショー。王。ハムレット。侍者多勢。
ホレ。「取り乱した姿で、ごめん! ああ、王妃さまが、あの、庭園の小川に、――」
王。「飛び込んだか!」
ホレ。「手おくれでございました。覚悟の御最後と見受けられます。喪服を召され、小さい銀の十字架を右の手のひらの中に、固く握って居られました。」
王。「気が弱い。わしを助けてくれる筈《はず》の人が、この大事の時に、馬鹿な身勝手の振舞いをしてくれた。わしが悪いのではない! あの人が、弱かったのだ。他人の思惑に負けたのだ。気の毒な。ええっ! 汚辱の中にいながらも、堪え忍んで生きている男もいるのだ。死ぬ人は、わがままだ。わしは、死なぬ。生きて、わしの宿命を全《まっと》うするのだ。神は、必ずや、わしのような孤独の男を愛してくれる。強くなれ! クローヂヤス。恋を忘れよ。虚栄を忘れよ。デンマーク国の名誉、という最高の旗じるし一つのために戦え! ハムレット、腹の中では、君以上に泣いている男がいますよ。」
ハム。「信じられない。僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ちつづける。」
[#地から2字上げ](昭和十六年七月文藝春秋社刊)
底本:「新ハムレット」新潮文庫、新潮社
1974(昭和49)年3月30日発行
1995(平成7)年1月30日30刷改版
1998(平成10)年7月20日33刷
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:細渕真弓
校正:細渕紀子
2003年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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