人間というものが、ひどく頼りなくなって来ました。よっぽど立派そうに見える男のかたでも、なに、本心は一様にびくびくもので、他人の思惑ばかりを気にして生きているものだという事が、やっとこのごろ、わかって来ました。人間というものは、みじめな、可哀そうなものですね。成功したの失敗したの、利巧だの、馬鹿だの、勝ったの負けたのと眼の色を変えて力《りき》んで、朝から晩まで汗水流して走り廻って、そうしてだんだんとしをとる、それだけの事をする為《ため》に私たちは此《こ》の世の中に生れて来たのかしら。虫と同じ事ですね。ばかばかしい。どんな悲しい、つらい事があっても、デンマークのため、という事を忘れず、きょうまで生きて努めて来たのですが、私は馬鹿です。だまされました。先王にも、現王にも、またハムレットにも、みんなに、だまされていたのです。デンマークのため、という言葉は、なんだか大きい崇高な意味を持っているようで、私はいつでも、デンマークのためとばかり思って、くるしい事でも悲しい事でも怺《こら》えて来ました。神さまからいただいた尊い仕事をしているのだという誇りがあったものですから、ずいぶん淋《さび》しい時でも我慢が出来たのです。私が神さまから特に選ばれて重い役目を言いつけられている人間だという自負があったからこそ忍従の生活を黙って続けて来たのですが、いま考えてみると、ばからしい。私のような弱い腕で、どんな仕事が出来るものですか。人は、私のひそかな懸命の覚悟なぞにはお構い無しに、勝ったの負けたのと情ない、きょろきょろ細かい気遣いだけで日を送って、そうして時々、なんの目的も無しに卑劣な事件なヌを起して、周囲の人の運命を、どしどし変えて行くのです。それから後が、また、お互い責任のなすり合いでたいへんです。私ひとりが、デンマークの為だのハムレット王家の為だのと緊張してみたところで、濁流に浮んでいる藁《わら》のようです、押し流されてしまいます。本当に、ばからしい。オフィリヤ。からだの調子は、どうですか?」
 オフ。「え? べつに。」
 王妃。「隠さずとも、よい。私は知っているのですから。御安心なさい。私だって、ハムレットの母として、あなたをいとしく思っています。きょうは、顔色もいいようですね。もう気分が、わるくなるような事は無くなりましたか。」
 オフ。「はい。王妃さま、お礼の言葉もございません。実
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