上手なのでしょう。私は、自分では何も出来やしない癖《くせ》に、沢田先生を笑ったりして、なんという馬鹿な娘でしょう。さらさらひらひらという形容さえ、とても私には、考えつかぬ事だった。私は、茶の間の言い争いを聞きながら、つくづく自分をいけない娘だと思いました。
その時は、母も父に言い負けて、沢田先生も姿を見せなくなりましたが、悪い事が、つづいて起りました。東京の深川で、金沢ふみ子という十八の娘さんが、たいへん立派な文章を書いて、それが世間の大評判になったのでした。そのひとの本が、どんな偉い小説家の本よりも、はるかに多く売れて、一躍、大金持になったという噂《うわさ》を、柏木の叔父さんが、まるで御自分が大金持にでもなったみたいに得意顔で家へやって来られて、母に話して聞かせたので、母は、また興奮して、和子だって書けば書ける文才があるのに、どうしてこうかねえ、いまは昔とちがって、女だからとて家にひっこんでばかりいてはいけない、ひとつ柏木の叔父さんから教わって、書いてみたらいい、柏木の叔父さんは、沢田先生なんかと違って、大学まですすんだ人だから、それは、何と言ったって、たのもしいところがあります、そんなにお金になるんだったら、お父さんだって大目《おおめ》に見てくれますよ、とお台所のあとかたづけをしながら、たいへん意気込んでおっしゃるのです。柏木の叔父さんは、その頃からまた、私の家へ、ほとんど毎日のようにお見えになり、私を勉強室へひっぱって行って、まず日記を書け、見たところ感じたところを、そのまま書いたら、それでもう立派な文学だ、等とおっしゃって、それから何やらむずかしい理窟《りくつ》をいろいろと言い聞かせるのですが、私には、てんで書く気が無かったので、いつも、いい加減に聞き流していました。母は興奮しては、すぐ醒めるたちなので、その時の興奮も、ひとつきくらいつづいて、あとは、けろりとしていましたが、柏木の叔父さんだけは、醒めるどころか、こんどは、いよいよ本気に和子を小説家にしようと決心した、とか真顔でおっしゃって、和子は結局は、小説家になるより他に仕様のない女なのだ、こんなに、へんに頭のいい子は、とても、ふつうのお嫁さんにはなれない、すべてをあきらめて、芸術の道に精進《しょうじん》するより他は無いんだ等と、父の留守の時には、大声で私と母に言って聞かせるのでした。母も、さすがに、そ
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