はるかに上手なようだ。もう独逸語を使う事はよそう、と私はとっさに戦法をかえて、
「でも、支那にお帰りになったら、立派なお家があるのでしょう。」とたいへん俗な質問を発した。
相手はそれに答えず、
「これから親しくしましょうね。支那人は、いやですか?」と少し顔を赤くして、笑いながら言った。
「けっこうですな。」ああ、なぜ私はあの時、あんな誠意のない、軽薄きわまる答え方をしたのであろう。あとで考え合わせると、あのとき周さんは、自分の身の上の孤独|寂寥《せきりょう》に堪えかねて、周さんの故郷の近くの西湖に似たと言われる松島の風景を慕って、ひとりでこっそりやって来て、それでもやっぱり憂愁をまぎらす事が出来ず、やけになって大声で下手な唱歌などを歌って、そうして、そこに不意にあらわれたヘマな日本の医学生に、真剣に友交を求めたのに違いないのだ。けれども私は、かねてから実は内心あこがれていないわけでもなかったところの江戸っ子弁という奴《やつ》をはばからず自由に試みられる恰好《かっこう》の相手が見つかって有頂天になっていたので、そんな相手の気持など何もわからず、ただもうのぼせて、「大いに、けっこうです。
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