という春の花のように甘美な名著があるけれども、いよいよ私がこの小説を書きはじめた、その直前に、竹内好氏から同氏の最近出版されたばかりの、これはまた秋の霜《しも》の如くきびしい名著「魯迅」が、全く思いがけなく私に恵送《けいそう》せられて来たのである。私は竹内氏とは、未だ一度も逢《あ》った事が無い。しかし、竹内氏が時たま雑誌に発表せられる支那文学に就いての論文を拝読し、これはよい、などと生意気にも同氏にひそかに見込を附けていたのである。いつか小田氏にお願いして、竹内氏に紹介してもらおうかとさえ思っていたのであるが、そのうちに竹内氏は出征なされたとか。それで、この竹内氏のご苦心の名著も、竹内氏のお留守の間に出版せられ、そうして、竹内氏が出征の際に、あの本が出来たら、太宰にも一部送ってやれ、とでも言い残して行かれたのであろうか、出版元から「著者の言いつけに依《よ》り貴下に一部贈呈する」という意味の送状が附け加えられていた。これだけでも既に不思議な恩寵《おんちょう》なのに、さらにまた、その本の跋《ばつ》に、この支那文学の俊才が、かねてから私の下手《へた》な小説を好んで読まれていたらしい意外の事実
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