、むっとした。学校に出ないからとて、「注意人物」とは大袈裟《おおげさ》すぎる。失敬である。私は黙っていた。
「それは冗談だが、」と相手は笑って、「君の事は、きのう、周さんからくわしく聞いた。君たちは、松島の旅館で一晩、何だか眠らずに論じ合ったそうじゃないか。周さんは、おかげで風邪《かぜ》をひいて寝込んでしまった。あのひとには、ちょっと Lunge の傾向があるんだから、そんな徹夜なんて乱暴な事をさせちゃいけない。」
 その時、私はふいと思い出した。あの夜、周さんが、或る物好きな学生の過度の親切には閉口している、と言っていたが、その学生の名は、たしか津田といったような気がする。なあんだ、それではあの、とろろ汁の指導者が、この目前の食通氏であったのか。
「熱があるのですか。」
「うん。たいした事もないらしいが、あまり丈夫な体質でもないようだからね。まあ、二、三日は学校を休ませるつもりだ。どうも、外国人は、世話が焼けるよ。ところで、鳥は、水たきがいいかね。酒も飲むだろう。」
「はあ、どうでも。」
「肉がかたいと困るな。いっそ、たたきにしてもらおうか。あれなら、無難だ。」
 私は思わず、くすと笑ってしまった。津田氏の上顎《うわあご》が全部ぶさいくな義歯なのを看破したからである。ブラザー軒のカツレツを靴の裏と断じ、また鰻の筋の珍説も、鳥のたたきの所望も、すべてこの義歯となんらかの聯関《れんかん》があるのではなかろうかと思った。
「まったくね。」と津田氏は私の笑いを他の事と勘違いしたらしく、「水っぱなみたいな薄いソップの水たきなんざ、恐れ入るからね。田舎料理は、たたきに限るよ。」
 そうして、たたきとお酒が注文され、津田氏みずからしさいらしく鍋の調理をして、さて、お酒をくみかわしながら、
「君、外国人とつき合うには、よっぽど気をつけてもらわないと困るよ。いまは日本は戦争中なんだからね、それを忘れていてはいけないよ。」と妙な事を言いはじめた。
 私はきょとんとして、
「はあ?」と言った。
「はあではない。僕は東京の府立一中の出身だがね、この戦争がはじまってからの東京の緊張と来たら、それはとても、こんな田舎で想像してみたって及ぶものではない。」まことに変な威張り方である。「清国留学生なんてのも、東京には何千人といるんだ。ちっとも珍しい事なんかありゃしない。」いよいよ出ていよいよ奇である。「しかし、だね、この留学生問題なんかも、よっぽど慎重に考えてみなければいかんのじゃないかね。何せ、日本はいま、北方の大強国と戦争中なんだからね。旅順《りょじゅん》もなかなか陥落しそうでないし、バルチック艦隊もいよいよ東洋に向って出発するそうだし、こりゃもう、大変な事になるかも知れない。この時に当って、清国政府は、日本に対して、まあ、好意的な中立の態度をとってくれているが、しかし、これがまた今後、どのように変化するかわかったものでない。清国政府自体がいま、ぐらつきはじめているのだからね。君たちには、わかるまいが、革命思想がいま支那の国内に非常な勢いで蔓延《まんえん》しているらしいからね。たたきが煮えたよ、たべないか。煮えすぎると固くなっていけない。それで、その、革命思想だがね、そいつの急先鋒《きゅうせんぽう》が、この留日学生だと来ているんで、問題がややこしくなる。君、こんな事はあまり人にしゃべってもらっては困るよ。これは、ここだけの話なんだからね。僕がなぜこんなに支那の内情に通じているかと言えば、だね、津田清蔵、知らないかね、僕の叔父貴《おじき》なんだが、津田、それから清い蔵《くら》と書いて清蔵《せいぞう》、知らない筈はないんだがね、やっぱりこのへんは田舎だな、身内の僕の口から言うのもへんだが、いまの日本の外交界では、まあ、若手の一流の働き手、というようなところだろうな。知らなけれあ仕様が無い。とにかく、そんな叔父貴があるんだから、いきおい僕も外国通になるさ。やあ、このたたきは、ひどいじゃないか。たたきには、卵をどっさりいれてよく煉《ね》り合わせないと、うまくない。卵を節約したに違いない。へんに饂飩粉《うどんこ》くさいじゃないか。なってないねえ。やっぱり田舎だ。まあ、仕様が無い。食おう。ところで、その革命思想だがね、これは秘密だよ、ここだけの話なんだよ、そのつもりで聞いてくれ。いまはその本部が日本にある。驚いたろう。もっとはっきり教えてやろうか。東京にいる清国留学生たちが、その中心勢力になっているんだ。どうだい、話が「よいよ面白くなって来たろう。」
 しかし、私には少しも面白くなかった。支那の革命運動に就いては、そんないい加減な「ここだけの話」よりも、その実情をもっとくわしく周さんから聞いていたので、何の驚くところも無かった。ただ、あいまいにその外国通の秘密の囁
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