ウマが合った」だのの観念を超越した何か大きいものに向っての信憑《しんぴょう》と努力とがあったのだが、それが何であったか、私にはどうも、よくわからない。相互の尊敬というものであろうか、隣人愛とでもいうものであろうか、或《ある》いは、正`とでもいうべきものであろうか、いやいや、そんな気持をみんなひっくるめた何かぼんやりして、もっと大きいもののような気がする。或いは、藤野先生がよくおっしゃっていた「東洋本来の道」とかいうものが、それに当っているのかも知れないが、どうもよくわからない。藤野先生の関西訛りから、妙な議論に発展してしまったが、要するに、私たちの後に到って結んだ同盟は、日本語不自由組の団結なんかではなかったのだ、それだけのものと見られるのは、いかにも残念、という気持を述べたいばかりの事であったのである。私たちの同盟の本質は何であったか、その判定は、私の力には余ることで、いずれ思想家どもの御意見にたよるより他は無かろうが、まあ、私はいまは恩師と旧友の面影をただていねいに書きとめて置けたら満足、それ以上の望蜀《ぼうしょく》の希求はあきらめて、この貧しい手記を書き続けて行くという事にしよう。さて、松島の奇遇に依って、のんきに結ばれた周さんと私の交友にも、時々へんな邪魔がはいったと前に書いたが、その不愉快な介入者が、まことに早く思いがけない方面からあらわれたのである。私は、その日、周さんに逢うのを楽しみにして、いつになく早く起きて登校したのだが、周さんの姿はどこにも見えず、また期待していた藤野先生の講義も、固苦しいと言っていいほどまじめなものだったので、少し閉口の気味で、結局その日は何の面白い事もなく、夕方、授業を終えてぼんやり校門を出た時、
「おい、ちょっと、君。」と呼びとめられ、ふりむくと、背の高い、鼻の大きな脂顔のキザったらしい生徒が、にやにや笑って立っていた。周さんと私との交友の、最初の邪魔者は、この男であった。その名は、津田憲治。
「ちょっと君に話したいことがあるんだがね。」横柄な口のきき方である。しかし、訛りは無かった。東京者かも知れぬ、と私はひそかに緊張した。「一番丁あたりで、晩めしをつき合ってくれないかね。」
「はあ。」東京者に対しては、私は極度に無口である。
「承知してくれるね。」先に立ってどんどん歩いて、「さあ、どこがいいかな。東京庵の天ぷら蕎麦《そば》も油くさくて食えないし、ブラザー軒のカツレツは固くて靴の裏と来ているし、どうも仙台には、うまいものがなくて困るね。まあ、行きあたりばったりの小料理屋で鳥鍋《とりなべ》でもつついていたほうが無難かも知れない。それとも、どこか他にいいところを知っているかね。」
「いや、はあ、べつに。」私は相手の威勢に圧倒されて、しどろもどろであった。この江戸っ子みたいな妙な学生は、いったい私にどんな話があるのだろうと頗《すこぶ》る不安ではあったが、相手は私の気持などにはてんで無関心の様子で、勝手な事をおしゃべりしながら、まるで私の上官の如く颯爽《さっそう》と先に立って歩くので田舎者の私には、何とも挨拶の仕様がなく、ただ幽《かす》かに苦笑しながら、その後について行くより他に仕方が無かったのである。
「それじゃ、まあ、とにかく一番丁へ行ってみて、どこかあらたに開拓するとしよう。おいしい蒲焼《かばやき》でもたべさせる家があるといいんだが、どうも、仙台の鰻《うなぎ》には筋《すじ》がある。」さかんに、へんな食通振りを発揮する。鰻の筋とはどんなものだか、それから四十年を経過した今日に到っても未《いま》だに解し得ない深い謎として私の胸中に滓沈《しちん》されている。それから私たちは、仙台の浅草とも称すべき東一番丁に行って、彼の所謂「行きあたりばったり」の小料理屋にはいり、これまた彼の言葉にしたがえば「無難」の鳥鍋をつつく事になったのであるが、彼は私と卓をはさんで坐り込むと、まず一葉の名刺を差し出した。仙台医学専門学校、クラス会幹事、津田憲治とある。この肩書では、彼は医専の先生にしてクラス会の幹事を兼ねているのか、それとも生徒なのか、或いはまた何年生のクラス会の幹事なのか、いっさいがあいまいである。そこがまた、彼の狙《ねら》いなのかも知れない。当時の専門学校級の生徒は、いまと違って、社会から一個の紳士としての待遇を受けていたので、その所属の学校の名刺を所持している学生も多かったが、しかし、こんな出鱈目《でたらめ》な肩書の印刷されてある名刺は、実にめずらしいものであった。
「はあ、そうですか。」私は噴《ふ》き出したいのをこらえて、「僕は名刺を持っていませんけど、田中、――」と名乗りかけると、
「いや知っている。田中卓。H中学出身。君はクラスの注意人物なんだ。学校にさっぱり出て来ないじゃないか。」
私は
前へ
次へ
全50ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング