ぶ》る失望の面持で帰って行ったが、それでも、ことしの正月にはその地方の新聞に、「日支親和の先駆」という題で私の懐古談の形式になっている読物が五、六日間連載された。さすがに商売柄、私のあんな不得要領の答弁をたくみに取捨して、かなり面白い読物にまとめている手腕には感心したが、けれども、そこに出ている周さんも、また恩師の藤野先生も、また私も、まるで私には他人のように思われた。私の事など、どんなに書かれたって何でも無いけれども、恩師の藤野先生や周さんが、私の胸底の画像とまるで違って書かれているので読んだ時には、かなりの苦痛を感じた。これもみな私の答弁の拙劣に原因しているのであろうが、でも、どうも、あんなに正面切って次々と質問されるとこちらは、しどろもどろにならざるを得ないのである。とっさに適切の形容等、私のような愚かな者にはとても思い浮かばず、まごついて、ふと呟《つぶや》いた無意味な形容詞一つが、妙に強く相手の耳にはいって自分の真意を曲解されてしまう事も少くないだろうし、どうも私は、この一問一答は、にがてなのだ。それで私は、こんどの記者の来訪には、非常に困惑し、自分のしどろもどろの答弁に自分で腹を立て、記者が帰ってからも二、三日、悲しい思いで暮したのだが、いよいよ正月になって、新聞に連載された懐古談なるものを読み、いまは、ただ藤野先生や、周さんに相すまない気持で一ぱいで、自分も既に六十の坂を越えて、もうそろそろこの世からおいとまをしてもよい年になっているし、いまのうちに、私の胸底の画像を、正しく書いて残して置くのも無意義なことではないと思い立ったのである。といっても私は、何もあの新聞に連載された「親和の先駆」という読物に、ケチを附けるつもりは無いのである。あのような社会的な、また政治的な意図をもった読物は、あのような書き方をせざるを得ないのであろう。私の胸底の画像と違うのも仕方の無いことで、私のは謂わばまあ、田舎《いなか》の耄碌《もうろく》医者が昔の恩師と旧友を慕う気持だけで書くのだから、社会的政治的の意図よりは、あの人たちの面影をただていねいに書きとめて置こうという祈念のほうが強いのは致し方の無い事だろう。けれども私は、それはまた、それで構わないと思っている。大善を称するよりは小善を積め、という言葉がある。恩師と旧友の面影を正すニいうのは、ささやかな仕事に似て、また確実に人倫の大道に通じているかも知れないのである。まあ、いまの老齢の私に出来る精一ぱいの仕事、というようなところであろう。このごろは、この東北地方にもしばしば空襲警報が鳴って、おどろかされているが、しかし、毎日よく晴れた上天気で、この私の南向きの書斎は火鉢《ひばち》が無くても春の如くあたたかく、私の仕事も、敵の空襲に妨げられ萎縮するなどの事なく順調に進んで行きそうな、楽しい予感もする。
さて、私の胸底の画像と言っても、果して絶対に正確なものかどうか、それはどうも保証し難い。自分では事実そのままに語っているつもりでも、凡愚の印象というものは群盲象をさぐるの図に似て、どこかに非常な見落しがあるかも知れず、それに、もうこれは四十年も昔の事で、凡愚の印象さらにあいまいの度を加えて、ただいま恩師と旧友の肖像を正さんと意気込んで筆を執《と》っても、内心はなはだ心細いところが無いでもない。まあ、あまり大きい慾を起さず、せめて一面の真実だけでも書き残す事が出来たら満足という気持で書く事にしよう。どうも、としをとると、愚痴《ぐち》やら弁解やら、言う事が妙にしちくどくなっていけない。どうせ、私には名文も美文も書けやしないのだから、くどくどと未練がましい申しわけを言うのはもうやめて、ただ「辞ハ達スル而已《ノミ》矣」という事だけを心掛けて、左顧《さこ》も右眄《うべん》もせずに書いて行けばいいのであろう。「爾《ナンジ》ノ知ラザル所ハ、人ソレ諸《コレ》ヲ舎《ス》テンヤ」である。
私が東北の片隅《かたすみ》のある小さい城下町の中学校を卒業して、それから、東北一の大都会といわれる仙台市に来て、仙台医学専門学校の生徒になったのは、明治三十七年の初秋で、そのとしの二月には露国に対し宣戦の詔勅《しょうちょく》が降り、私の仙台に来たころには遼陽《りょうよう》もろく陥落《かんらく》し、ついで旅順《りょじゅん》総攻撃が開始せられ、気早な人たちはもう、旅順陥落ちかしと叫び、その祝賀会の相談などしている有様。殊にも仙台の第二師団第四聯隊は、榴《つつじ》ヶ岡《おか》隊と称《とな》えられて黒木第一軍に属し、初陣の鴨緑江《おうりょっこう》の渡河戦に快勝し、つづいて遼陽戦に参加して大功を樹《た》て、仙台の新聞には「沈勇なる東北兵」などという見出しの特別読物が次々と連載せられ、森徳座という芝居小屋でも遼陽陥落万々歳というに
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