《ささや》きに合槌《あいづち》を打ち、もっぱら鳥鍋に首を突込んでばかりいた。田舎者の私には、その不評判のたたきも、別に饂飩粉くさくも感じられず、非常においしく思われた。
「問題は、ここだ。いいかい、今夜は一つゆっくり考えてくれ。清国政府が金を出して留学生を日本に送り、その留学生たちが、清国政府打倒の気勢を挙げているのだから、妙なものさ。これでは、まるで、清国政府がみずからを崩壊させるための研究費を留学生たちに給与しているようなものだ。日本の政府は、この留学生たちの革命思想に対して、いまのところは、まあ、見て見ぬ振りというような形でいるらしいが、しかし、民間の日本の義侠《ぎきょう》の士は、すすんでこの運動に援助を与えている。君、おどろいてはいけない。支那の革命運動の大立者、孫文という英雄は、もう早くから日本の侠客《きょうかく》の宮崎なんとかいう人の家にかくまわれているのだぞ。孫文。この名を覚えて置いたほうがいい。凄いやつらしいんだ。ライオンのような風貌《ふうぼう》をしているそうだ。留学生たちも、この人のいう事なら何でも聴く。絶対の信頼だ。そのおそるべき英傑の顧問が、その宮崎なんとかいう人をはじめ日本の民間の義士だ。ここが間一髪のところさ。日本政府が見て見ぬ振りをしていたところで、この革命思想が日本の首都の東京において強力な打清運動を展開するようになったら、清国政府が日本に対してどのような感情を抱くか。平時だったら、かまわないさ。支那というすぐれた文明の伝統を有する大国を、列国の侵略から救うためにはどうしても革命の手段が必要だというのなら、何も清国政府に遠慮なんかしている場合じゃない。僕だって、その孫文という英雄の許《もと》に馳《は》せ参じて、大いに激励してやるさ。日本人は、みんなそれくらいの義気は持っている。大和魂《やまとだましい》の本質は、義気だからね。しかし、君、日本はいま国運を賭《と》して、北方の強大国と戦争のまっさいちゅうだ。もし、清国政府が日本政府に対して悪感情を抱き、現在の好意的な中立の態度を放擲《ほうてき》して逆に露西亜《ロシア》に傾いて行ったら、どうなるか。この戦争も、或いは日本にとって非常に困難なものになりはせぬか。ここだ。いいかい、ここが外交の妙訣《みょうけつ》さ。一面戦争、一面外交さ。何が、おかしい。真面目に聞けよ。国家の、実に重大な問題なんだぜ
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