かぶっているので、制帽が異様にもりあがって富士山の如き形になっていて、甚だ滑稽《こっけい》と申し上げるより他は無かった。中にちょっとお洒落《しゃれ》なのもいて、制帽のいただきが尖《とが》らないように辮髪を後頭部の方に平たく巻いて油でぴったり押えつけるという新工夫を案出して、その御苦心は察するにあまりあったが、帽子を脱ぐと、男だか女だかわからない奇怪な感じで、うしろ姿などいやになまめかしくて、思わずぞっとする体のものであった。そうしてかえって、自分のように辮髪を切り落している者を、へんに軽蔑の眼で見るのだからたまらない。また、その選ばれた秀才の一団が、市街鉄道などにどやどや乗り込んだ時には、礼譲の国から来た人間の面目を発揮するのはここだとでもいうつもりか、互いに座席の譲り合いで大騒ぎをはじめる。甲が乙に掛けろと言えば乙は辞退して丙に掛けろと言う。丙は固辞して丁にすすめる。丁はさらに鞠躬如《きっきゅうじょ》として甲にお掛けなさいと言う。日本の老若男女の乗客があっけにとられて見ている中で、大声でわめいて互いに揖譲《ゆうじょう》して終らぬうちに、がたんと車体が動くと同時に、サの一団は折りかさなって倒れる。自分は片隅《かたすみ》でかくれるようにしてそれを眺めて、恥かしいとも何とも言いようない気持になったものだ。しかし、それはまだ深くとがむべきではなかった。そのような同胞の無邪気な努力を情なく思う自分の気取った心に罪があるのかも知れない。自分の憂鬱の原因は他にもう一つあった。それは学生たちの不勉強であった。支那の革命運動の現状に就いて、自分はまだはっきりした事はわからぬが、三合会、哥老会、興中会などの革命党の秘密結社は、孫文を盟主として、もうとっくに大同団結を遂《と》げている様子で、さきに日本に亡命して来た康有為一派の改善主義は、孫文一派の民族革命の思想と相容《あいい》れず、康有為はひそかに日本を去って欧洲に旅立ったらしく、いまは孫文の所謂《いわゆる》三民五憲の説が圧倒的に優勢になって、その確立せられた主義綱領に基づいて、いよいよ活溌な実際行動の季節に突入した状態のように見受けられ孫文ご自身も、東京にあらわれて日本の志士の応援を得て種々画策し、このごろでは東京が支那革命運動の本拠になっているような工合らしいので、留日学生の興奮もすさまじく、寄るとさわると打清興漢の気勢を挙げ、学
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