民衆を救う事に対する懐疑でした。きょうはひとつまた、僕の長広舌を聞いてもらいます。松島の気焔は楽しかったが、今夜の告白は、暗澹《あんたん》たるものです。」と言って、にっと笑い、「僕はいま笑いましたね。なぜ笑ったのでしょう。エジプトの奴隷もきっとこんな工合の、自分にもわからない笑いを時々もらしたに違いない。奴隷だって笑います。いや、奴隷だから笑うのかも知れません。僕はこの仙台のまちを散歩している捕虜《ほりょ》の表情に注意していますが、あの人たちは、あまり笑いません。何か希望を持っている証拠です。早く帰国したいと焦慮しているだけでも、まだ奴隷よりはましです。僕も、たまにはあの人たちに、パピロスをやりましたが、あの人たちは当然だというような顔をして受取ります。あの人たちは、まだ奴隷にはなっていません。」その頃、仙台に露西亜《ロシア》の捕虜が、多い時には二千人も来て、荒町や新寺小路附近の寺院、それから宮城野原の仮小屋などにそれぞれ収容されていて、そのとしの秋あたりから自由に市内の散歩もゆるされ、露西亜語で正確にはどう発音されるのか知らないが、しきりにパピロスをほしがり、それは煙草の事を意味しているらしく、仙台の子供たちさえ、いつのまにかそのパピロスという言葉を覚えてしまって、捕虜たちに向って、パピロスほしいか、と呼びかけて捕虜が首肯《うなず》くとよろこび勇んで煙草屋に駈けつけ、煙草を買って与えて、得意がっていたものである。「僕は、あの人たちにパピロスを与えて、それでも、あの人たちがあまりに平然としているので、何か僕のほうで恥かしいような気がしたものです。侮辱をさえ感じました。ひょっとしたらこの捕虜は、僕が支那人である事を見抜いているのではないか。そうして支那の現状が、そろそろ列国の奴隷になりかけているのを知って、彼等は、僕に対してだけ特に、優越感を抱いているのではなかろうか、いや、たしかにそれは僕のひがみなんです。そうです。僕がこんど東京で覚えて来たものは、この、ひがみです。僕は、不安なのです。自国の民衆の救済に就《つ》いて、非常な不安を感じるようになりまオた。いま思えば、あの松島に於ける気焔は、非常に幼稚なものでした。自分のあの頃の単純幼稚がなつかしいと同時に、恥かしい。思い出しては、ひとりで赤面しています。なんとまあ、あどけない理論に酔っていたのでしょう。僕はあの頃、た
前へ
次へ
全99ページ中78ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング