。案外つまらないものかも知れない。)けれども、夫婦愛というものが、もし此の世の中にあるとしたなら、その最高のものを姉さんは実現なさるでしょう。姉さん! 僕の此の美しい「まぼろし」をこわさないで下さい。
さらば、行け! 御無事に暮せ! もしこれが、永遠のお別れならば、永遠に、御無事に暮せ。
以上は、姉さんだけに、こっそり話かけている気持で書いたのですが、姉さんは、この僕のひそかなお別れの言葉に、永久に気がつかないかも知れない。これは、僕ひとりの秘密の日記帳なのだから。でも、姉さんがこれを見たら、笑うだろうな。
この、お別れの言葉を、姉さんに直接言ってあげるほどの勇気が僕に無いのは、腑甲斐《ふがい》なく、悲しい事だ。
あすは月曜日。ブラック・デー。もう寝よう。神様。僕を忘れないで下さい。
四月十九日。月曜日。
だいたい晴れ。きょうは、実に不愉快だった。もう、蹴球部《しゅうきゅうぶ》を脱退しようと思った。脱退しないまでも、もう、スポーツがいやになった。これからは、いい加減に附《つ》き合ってやるんだ。きゃつらが、いい加減なのだから、仕様が無い。きょう、キャプテンの梶《かじ》を、一発なぐってやった。梶は卑猥《ひわい》だ。
きょう放課後、部員が全部グランドにあつまって、今学年最初の練習を開始した。去年のチイムに較《くら》べて、ことしのチイムは、その気魄《きはく》に於ても、技術に於ても、がた落ちだ。これでは、今学期中に、よそと試合できるようになるかどうか、疑問である。ただ、メンバーがそろったというだけで、少しもチイムワアクがとれていない。キャプテンがいけないんだ。梶には、キャプテンの資格が無いんだ。ことし卒業の筈《はず》だったのに、落第したから、としの功でキャプテンになったのだ。チイムを統率するには、凄いキックよりも、人格の力が必要なのだ。梶の人格は低劣だ。練習中にも、汚い冗談ばっかり言い散らしている。ふざけている。梶ばかりでなく、メンバー全体が、ふざけている。だらけている。ひとりひとり襟首《えりくび》をつかまえて水につっ込んでやりたい位だった。練習が終ってから、れいに依《よ》ってすぐ近くの桃の湯に、みんなで、からだを洗いに行った。脱衣場で、梶が突然、卑猥な事を言った。しかも、僕の肉体に就いて言ったのである。それは、どうしても書きたくない言葉だ。僕は、まっぱだかのままで、梶の前に立った。
「君は、スポーツマンか?」と僕が言った。
誰かが、よせよせと言った。
梶は脱ぎかけたシャツをまた着直して、
「やる気か、おい。」と顎《あご》をしゃっくて、白い歯を出して笑った。
その顔を、ぴしゃんと殴ってやった。
「スポーツマンだったら、恥ずかしく思え!」と言ってやった。
梶は、どんと床板を蹴《け》って、
「チキショッ!」と言って泣き出した。
実に案外であった。意気地の無い奴《やつ》なんだ。僕は、さっさと流し場へ行って、からだを洗った。
まっぱだかで喧嘩《けんか》をするなんて、あまりほめた事ではない。もうスポーツが、いやになった。健全な肉体に健全な精神が宿るという諺《ことわざ》があるけれど、あれには、ギリシャ原文では、健全な肉体に健全な精神が宿ったならば! という願望と歎息《たんそく》の意味が含まれているのだそうだ。兄さんがいつかそう言っていた。健全な肉体に、健全な精神が宿っていたならば、それは、どんなに見事なものだろう、けれども現実は、なかなかそんなにうまく行かないからなあ、というような意味らしい。梶だって、ずいぶん堂々たる体格をしているが、全く惜しいものだ。あの健全な体格に、明朗な精神が宿ったならば! だ。
夜、ヘレン・ケラー女史のラジオ放送を聞いた。梶に聞かせてやりたかった。めくら、おし、そんな絶望的な不健全の肉体を持っていながら、努力に依って、口もきけるようになったし、秘書の言う事を聞きとれるようにもなったし、著述も出来るようになって、ついには博士号を獲得したのだ。僕たちは、この婦人に無限の尊敬をはらうのが本当であろう。ラジオの放送を聞いていたら、時折、聴衆の怒濤《どとう》の如《ごと》き拍手が聞えて来て、その聴衆の感激が、じかに僕の胸を打ち、僕は涙ぐんでしまった。ケラー女史の作品も、少し読んでみた。宗教的な詩が多かった。信仰が、女史を更生させたのかも知れない。信仰の力の強さを、つくづく感じた。宗教とは奇蹟《きせき》を信じる力だ。合理主義者には、宗教がわからない。宗教とは不合理を信ずる力である。不合理なるが故《ゆえ》に、「信仰」の特殊的な力、――ああ、いけねえ、わからなくなって来た。もう一辺、兄さんに聞いてみよう。
あすは火曜日。いやだ、いやだ。男子が敷居をまたいで外へ出ると敵七人、というが、全くそのとおりだ。油断もなにも、あったもんじゃない。学校へ行くのは、敵百人の中へ乗り込んで行くのと変らぬ。人には負けたくないし、さりとて勝つ為には必死の努力が要るし、どうも、いやだ。勝利者の悲哀か。まさか。梶よ、あしたは、にっこり笑い合って握手しよう。全くお前に銭湯で言われたとおり、僕のからだは白すぎるんだ。いやで、たまらないんだ。けれども僕は、へんな所におしろいなんか、つけていないぜ。ばかにしていやがる。今夜は、これから聖書を読んで寝よう。
心安かれ、我なり、懼《おそ》るな。
四月二十日。火曜日。
晴れ、といっても、日本晴れではない。だいたい晴れ、というようなところだ。きょうは、さっそく梶と和解した。いつまでも不安な気持でいるのは、いやだから、梶の教室へ行って、あっさりあやまった。梶は、うれしそうにしていた。
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わが友の、
笑って隠す淋しさに、
われも笑って返す淋しさ。
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けれども僕は、以前と同じように梶を軽蔑《けいべつ》している。これは、どうにも仕様がない。梶は、いやに思案深いような、また、僕を信頼しているような低い声で、
「いちどお前に相談しようと思っていたんだがな、こんど蹴球部に一年生の新入《しんいり》が十五人もあったんだ。みんな、なっちゃいねえんだ。つまらねえのを、たくさん入れても、部の質が落ちるばかりだしなあ、俺《おれ》だって、張り合いがねえや。考えて置いて呉《く》れ。」と言うのだが、僕には滑稽《こっけい》に聞えた。梶は、自己弁解をしているのだ。自分のだらし無さを、新入生のせいにしようとしているのだ。いよいよ卑劣な奴だ。
「多くたってかまわないじゃないか。練習を張り切ってやれぁ、だめな奴はへたばるし、いいやつは残るだろうしさ。」と僕が言ったら、
「そうもいかねえ。」と大声で言って、空虚な馬鹿笑いをした。なぜ、そうもいかねえのか、僕にはわからなかった。いずれにもせよ、僕には、もう蹴球部に対して、以前ほどの情熱が無いのだ。お好きなようにやってみ給《たま》え。こんにゃくチイムが出来るだろう。
学校の帰り、目黒キネマに寄って、「進め竜騎兵《りゅうきへい》」を見て来た。つまらなかった。実に愚作だ。三十銭損をした。それから、時間も損をした。不良の木村が、凄い傑作だから是非とも見よ、と矢鱈《やたら》に力こぶをいれて言うものだから、期待して見に行ったのだが、なんという事だ、ハアモニカの伴奏でもつけたら、よく似合うような、安ポマードの匂《にお》いのする映画だった。木村はいったい、どこにどう感心したのだろう。不可解だ。あいつは、案外、子供なんじゃないかな? 馬が走ると、それだけで嬉《うれ》しいのだろう。あいつのニイチェも、あてにならなくなって来た。チュウインガム・ニイチェというところかも知れない。
今夜は、姉さんが鈴岡さんからの電話で、銀座へおでかけ。婚前交際というやつだ。二人で、いやに真面目《まじめ》な顔をして銀座を歩いて、資生堂でアイスクリイム・ソオダとでもいったところか。案外、「進め竜騎兵」なんかを見て感心しているのかも知れない。結婚式も、もうすぐなのに、のんきなものだ。やめたほうがいい。お母さんは、ついさっき癇癪《かんしゃく》を起した。からだを洗う金盥《かなだらい》のお湯が熱すぎると言って、金盥をひっくり返してしまったのだそうだ。看護婦の杉野さんは泣く。梅やはどたばた走り廻《まわ》る。たいへんな騒ぎだった。兄さんは、知らぬ振りして勉強していた。僕は、気が気でなかった。姉さんがいらしたら、何でもなくおさまる事なのだけれど。杉野さんは階段の下で、永い事すすり泣いていた様子で、それを書生の木島さんが哲学者ぶった荘重な口調で何かと慰めていたのは滑稽だった。木島さんは、お母さんの遠縁の者だそうだ。五、六年前、田舎の高等小学校を卒業して僕の家へ来たのである。いちど徴兵検査のため田舎へ帰っていたのだが、しばらくして又、家へやって来た。近眼が強い為《ため》に、丙種だったのである。にきびが、とてもひどいけれど、わるい顔ではない。政治家になるのが、理想らしい。けれども、ちっとも勉強していないから、だめだろう。僕のお父さんの事を、外へ出ると、「伯父さん」と呼んでいるそうだ。悪気のない、さっぱりした人だ。けれども、それだけの人だ。一生、僕の家にいるつもりかも知れない。
姉さんは、いま、やっと御帰宅。十時八分。
僕は、これから、代数約三十題。疲れて、泣きたい気持だ。ロバートなんとか氏の曰《いわ》く、「一人の邪魔者の常に我身に附《つ》き纏《まと》うあり、其名《そのな》を称して正直と云《い》う」芹川進《せりかわすすむ》氏の曰く、「一人の邪魔者の常に我身に附き纏うあり、其名を称して受験と云う」
無試験の学校へはいりたい。
四月二十一日。水曜日。
曇、夜は雨。どこまでつづく暗鬱《あんうつ》ぞ。日記をつけるのも、いやになった。きょう、数学の時間に、たぬきが薄汚いゴム長靴《ながぐつ》などはいて来て、このクラスには四年から受ける人が何人いるかね、手を挙げて、と言うから、ハッとして思わずちょっと手を挙げたら、僕ひとりだった。級長の矢村さえ、用心して手を挙げない。うつむいて、もじもじしている。卑怯《ひきょう》な奴だ。たぬきは、へえ、芹川がねえ、と言って、にやりと笑った。僕は恥ずかしくて、一瞬間、世界が真暗になった。
「どこへ受けるのかね。」たぬきの口調は、ひとを軽蔑し切った口調だった。
「きまっていません。」と答えた。さすがに、一高、と言い出す勇気は無かった。悲しかった。
たぬきは、口鬚《くちひげ》を片手でおさえてクスクス笑った。実に、いやだった。
「しかし、みんなも、」とたぬきは改まった顔つきをして、みんなを見渡し、「四年から受けるならば、ちょっと受けてみましょうなんて、ひやかしの気分からでなく、必ず合格しようという覚悟をきめて受けなくてはいかん。ふらついた気持で受けて、落ちると、もう落ちる癖がついて、五年になってから受けても、もうだめになっている場合が多い。よくよく慎重に考えて決定するように。」と、まるっきり僕の全存在を、黙殺しているような言いかただった。
僕はたぬきを殺してやろうかと思った。こんな失敬な教師のいる学校なんて、火事で焼けてしまえばよいと思った。僕はもう、なんとしても、四年から他の学校に行ってしまうのだ。五年なんかに残るものか。こっちのからだが腐ってしまう。僕は語学に較《くら》べて数学の成績があまりよくなかったけれど、でも、だから、それだから、毎日毎晩、勉強していたのだ。ああ、一高へはいって、たぬきの腹をでんぐり返してやりたいのだが、だめかも知れない。なんだか、勉強もいやになった。
学校の帰り、武蔵野館《むさしのかん》に寄って、「罪と罰」を見て来た。伴奏の音楽が、とてもよかった。眼をつぶって、音楽だけを聞いていたら、涙がにじみ出て来た。僕は、堕落したいと思った。
家へ帰ってからも何も勉強しなかった。長い詩を一つ作った。その詩の大意は、自分は今、くらい、どん底を這《は》いまわっている。けれども絶望はしていない。どこかわからぬところから、ぼんやり光が射《さ》
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