らないなんて、とんでもない事だ。くだらないと思ったなら、そこには怒りもあるだろうし、軽蔑し切って捨て去り、威勢よく他の道へ飛込んで行く事も出来るだろうが、僕のけさの気持は、そんなものではなかった。むなしいのだ。すべてが、どうでもいいのだ。演劇。それは、さぞ、立派なものでございましょう。俳優。ああ、それもいいでしょうね。けれども、僕は、動かない。ハッキリ、間隙《かんげき》が出来ていた。冷たい風が吹いている。斎藤氏のお家へはじめてお伺いして、ていのいい玄関払いを食って帰った時にも、之《これ》に似た気持を味わった。世の中が、ばかばかしい、というよりは、世の中に生きて努力している自分が、ばかばかしくなるのだ。ひとりで暗闇《くらやみ》で、ハハンと笑いたい気持だ。世の中に、理想なんて、ありゃしない。みんな、ケチくさく生きているのだ。人間というものは、やっぱり、食うためにだけ生きているのではあるまいか、という気がして来た。あじきない話である。
 放課後、ふらふらと蹴球部《しゅうきゅうぶ》の支度部屋へ立寄ってみた。蹴球部へでも、はいろうかと思ったのだ。なにも考えずにボールでも蹴《け》って、平凡な学生として、ぼんやり暮したくなったのだ。蹴球部の部屋には誰もいなかった。合宿所のほうに行っているのかも知れない。合宿所までたずねて行くほどの情熱も無く、そのまま家へ帰った。
 家へ帰ったら、鴎座から速達が来ていた。合格である。「今回の審査の結果、五名を研究生として合格させた。貴君も、その一人である。明日、午後六時、研究所へおいであれ。」というような通知である。少しも、うれしくなかった。不思議なくらい、平静な気持であった。R大合格の通知を受けた時のほうが、まだしも、これより嬉しかった。僕にはもう、役者の修業をする気が無いのだ。きのう、上杉氏から俳優としての天分を多少みとめられて、それだけは、鬼の首でも取ったように、ほくほくしていたのだが、けさ、眼が覚めた時には、その喜びも灰色に感ぜられて、なんだ、才能なんて、あてにならない、やっぱり人格が大事だなどと、まじめに考え直してしまっている。この、気分の急変は、どこから来たか。恋を、まったく得てしまった者の虚無か、きのう鴎座の試験の時に無意識で選んで読んだ、あの、ファウストの、「成就の扉の、開《あ》いているのを見た時は、己達はかえって驚いて立ち止まる。」という台詞《せりふ》のとおり、かねて、あこがれていた俳優が、あまりにも容易に掴《つか》み取れそうなのを見て、うんざりしたのか。
「進は、合格しても、あまり嬉しそうでないじゃないか。」兄さんも、そう言っていた。
「考えてみます。」僕は、まじめに答えた。
 今夜は、兄さんと、とてもつまらぬ議論をした。たべものの中で、何が一番おいしいか、という議論である。いろいろ互いに食通振《しょくつうぶ》りを披瀝《ひれき》したが、結局、パイナップルの鑵詰《かんづめ》の汁《しる》にまさるものはないという事になった。桃の鑵詰の汁もおいしいけど、やはり、パイナップルの汁のような爽快《そうかい》さが無い。パイナップルの鑵詰は、あれは、実《み》をたべるものでなくて、汁だけを吸うものだ、という事になって、
「パイナップルの汁なら、どんぶりに一ぱいでも楽に飲めるね。」と僕が言ったら、
「うん、」と兄さんもうなずいて、「それに氷のぶっかきをいれて飲むと、さらにおいしいだろうね。」と言った。兄さんも、ばかな事を考えている。
 たべものの話をしたら、やけにおなかが空《す》いて来たので、食通ふたりは、こっそり台所へ行って、おむすびを作ってたべた。非常においしかった。
 ニヒルと、食慾《しょくよく》と、何か関係があるらしい。
 兄さんは、いま、隣室で、小説を書いている。もう五十枚以上になったらしい。二百枚の予定だそうだ。雪が降りはじめた時に、という書出しから始まる美しい小説だ。僕は十枚ばかり読ませてもらった。出来上ったら、文学公論の懸賞に応募するんだそうだ。兄さんは以前、懸賞の応募を、あんなに軽蔑していたのに、どうしたのだろう。
「懸賞に応募するなんて、自分を粗末にする事じゃないのかな。作品が、もったいない。」と僕が言ったら、
「でも、あたったら二千円だ。お金でも、とれるんでなかったら、小説なんて、ばからしい。」と、とても下品な表情をして言ったが、兄さんは、このごろ、ずいぶんお酒も飲むし、なんだか、堕落しているんじゃないかしら、と心配だ。
 いずれを見ても、理想の喪失。
 今夜は、ばかに眠い。


 五月十一日。木曜日。
 曇。風強し。きょうは、やや充実した日だった。きのうの僕は幽霊だったが、きょうは、いくぶん積極的な生活人だった。学校の聖書の講義が面白かった。毎週一回、寺内神父の特別講義があるのだが、いつも僕には、この時間が、たのしみなのだ。先々週の、木曜の講義も面白かった。「最後の晩餐《ばんさん》」の研究なのだが、晩餐の十三人が、それぞれ食卓のどの位置についていたか、図解して、とても明瞭《めいりょう》に教えてくれた。そうして十三人全部が、寝そべって食卓についたというのだから驚いた。当時の風習として、食卓のまわりに寝台があって、その寝台にそれぞれ寝そべって飲食したのだそうである。ダヴィンチの「最後の晩餐」は、事実とは違っていたわけである。ロシヤのゲエとかいう画家のかいた「最後の晩餐」の絵は、みんな寝そべっているそうである。キリストの精神とは、全く関係の無い事だが、僕には、とても面白かった。どうも僕は、食べることに関心を持ちすぎるようだ。きょうもやっぱり、食べる事に就いて考えて、けれども、之は、あながちナンセンスに終らなかった。多少、得るところがあった。きょうは、寺内師は、旧約の申命記を中心にして講義した。寺内師は、決して、教壇に立って講義はしない。空《あ》いている学生の机に座席をとって、学生と一緒に勉強するような形で、くつろいで話をする。それが、とてもいい感じだ。みんなと楽しい事に就いて相談でもしているような感じだ。きょうは、申命記を中心にして、モーゼの苦心を語ってくれたが、僕はその中でも、モーゼが民衆のたべ物の事にまで世話を焼いているのを興味深く感じた。
「十四章。汝《なんじ》穢《けがら》わしき物は何も食《くら》う勿《なか》れ。汝らが食《くら》うべき獣蓄《けもの》は是《これ》なり即《すなわ》ち牛、羊、山羊《やぎ》、牡鹿《おじか》、羚羊《かもしか》、小鹿、※[#「鹿+嚴」、148−1]《やまひつじ》、※[#「鹿/章」、第3水準1−94−75]《くじか》、麈《おおじか》、※[#「鹿/京」、148−1]《おおくじか》、など。凡《すべ》て獣蓄《けもの》の中蹄《うちひづめ》の分れ割れて二つの蹄を成せる反蒭獣《にれはむけもの》は汝ら之《これ》を食《くら》うべし。但《ただ》し反蒭者《にれはむもの》と蹄の分れたる者の中《うち》汝らの食《くら》うべからざる者は是なり即ち駱駝《らくだ》、兎《うさぎ》および山鼠《やまねずみ》、是らは反蒭《にれはめ》ども蹄わかれざれば汝らには汚《けが》れたる者なり。また豚是は蹄わかるれども反蒭《にれはむ》ことをせざれば汝らには汚《けがれ》たる者なり、汝ら是等《これら》の物の肉を食《くら》うべからず、またその死体《しかばね》に捫《さわ》るべからず。
 水におる諸《もろもろ》の物の中是《うちかく》のごとき者を汝ら食《くら》うべし即ち凡て翅《ひれ》と鱗《うろこ》のある者は皆汝ら之を食《くら》うべし。凡て翅と鱗のあらざる者は汝らこれを食《くら》うべからず是は汝らには汚《けがれ》たる者なり。
 また凡て潔《きよ》き鳥は皆汝らこれを食《くら》うべし。但し是等は食《くら》うべからず即ち※[#「周+鳥」、第3水準1−94−62]《わし》、黄鷹《くまたか》、鳶《とび》、※[#「亶+鳥」、第3水準1−94−72]《はやぶさ》、鷹《たか》、黒鷹の類《たぐい》、各種《もろもろ》の鴉《からす》の類《たぐい》、鴕鳥《だちょう》、梟《ふくろ》、鴎《かもめ》、雀鷹《すずめたか》の類《たぐい》、鸛《こう》、鷺《さぎ》、白鳥、※[#「(「署」の「者」に代えて「幸」)+鳥」、148−9]※[#「虞」+「鳥」、148−9]《おすめどり》、大鷹、※[#「茲+鳥」、第3水準1−94−66]《う》、鶴《つる》、鸚鵡《おうむ》の類《たぐい》、鷸《しぎ》および蝙蝠《こうもり》、また凡て羽翼《つばさ》ありて匍《はう》ところの者は汝らには汚《けがれ》たる者なり汝らこれを食《くら》うべからず。凡て羽翼《つばさ》をもて飛《と》ぶところの潔《きよ》き物は汝らこれを食《くら》うべし。
 凡そ自《みずか》ら死《しに》たる者は汝ら食《くら》うべからず。」
 実に、こまかいところまで教えてある。さぞ面倒くさかった事であろう。モーゼは、これらの鳥獣、駱駝や鴕鳥の類まで、いちいち自分で食べてためしてみたのかも知れない。駱駝は、さぞ、まずかったであろう。さすがのモーゼも顔をしかめて、こいつはいけねえ、と言ったであろう。先覚者というものは、ただ口で立派な教えを説いているばかりではない。直接、民衆の生活を助けてやっている。いや、ほとんど民衆の生活の現実的な手助けばかりだと言っていいかも知れない。そうしてその手助けの合間合間に、説教をするのだ。はじめから終りまで説教ばかりでは、どんなに立派な説教でも、民衆は附《つ》きしたがわぬものらしい。新約を読んでも、キリストは、病人をなおしたり、死者を蘇《よみがえ》らせたり、さかな、パンをどっさり民衆に分配したり、ほとんどその事にのみ追われて、へとへとの様子である。十二弟子さえ、たべものが無くなると、すぐ不安になって、こそこそ相談し合っている。心の優しいキリストも、ついには弟子達を叱《しか》って、「ああ信仰うすき者よ、何《なん》ぞパン無きことを語り合うか。未《いま》だ悟らぬか。五つのパンを五千人に分ちて、その余《あまり》を幾筐《いくかご》ひろい、また七つのパンを四千人《しせんにん》に分ちて、その余《あまり》を幾籃《いくかご》ひろいしかを覚えぬか。我が言いしはパンの事にあらぬを何《なん》ぞ悟らざる。」と、つくづく嘆息をもらしているのだ。どんなに、キリストは、淋《さび》しかったろう。けれども、致しかたが無いのだ。民衆は、そのように、ケチなものだ。自分の明日のくらしの事ばかり考えている。
 寺内師の講義を聞きながら、いろんな事を考え、ふと、電光の如《ごと》く、胸中にひらめくものを感じた。ああ、そうだ。人間には、はじめから理想なんて、ないんだ。あってもそれは、日常生活に即した理想だ。生活を離れた理想は、――ああ、それは、十字架へ行く路《みち》なんだ。そうして、それは神の子の路である。僕は民衆のひとりに過ぎない。たべものの事ばかり気にしている。僕はこのごろ、一個の生活人になって来たのだ。地を匍《は》う鳥になったのだ。天使の翼が、いつのまにやら無くなっていたのだ。じたばたしたって、はじまらぬ。これが、現実なのだ。ごまかし様《よう》がない。「人間の悲惨を知らずに、神をのみ知ることは、傲慢《ごうまん》を惹《ひ》き起す。」これは、たしか、パスカルの言葉だったと思うが、僕は今まで、自分の悲惨を知らなかった。ただ神の星だけを知っていた。あの星を、ほしいと思っていた。それでは、いつか必ず、幻滅の苦杯を嘗《な》めるわけだ。人間のみじめ。食べる事ばかり考えている。兄さんが、いつか、お金にもならない小説なんか、つまらぬ、と言っていたが、それは人間の率直な言葉で、それを一図《いちず》に、兄さんの堕落として非難しようとした僕は、間違っていたのかも知れない。
 人間なんて、どんないい事を言ったってだめだ。生活のしっぽが、ぶらさがっていますよ。「物質的な鎖と束縛とを甘受せよ。我は今、精神的な束縛からのみ汝《なんじ》を解き放つのである。」これだ、これだ。みじめな生活のしっぽを、ひきずりながら、それでも救いはある筈だ。理想に邁進する事が出来る筈だ。いつも明日
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