れども、そんな音楽は、世界中を捜してもないだろう。
 床屋から帰って、それから、兄さんにすすめられて科白《せりふ》の練習を少しやってみた。桜の園のロパーヒン。
 兄さんに、いろいろ注意された。自分の声をそのまま出して自然に言う事。もっとおなかに力をいれて、ハッキリ言う事。あまり、からだを動かさない事。いちいち顎《あご》をひかない事。口辺の筋肉を、もっとやわらかに。これは手痛かった。口を、ヘの字に曲げようと努力しすぎたのだ。
「お前は、サシスセソが、うまく言えないようだね。」これも手痛かった。自分でも、それは薄々感じていたのだ。舌が長すぎるのだろうか。
「妄言《ぼうげん》多謝だ。」兄さんは笑って、「お前は、僕なんかに較《くら》べると問題にならないほど、うまいんだ。でも、あしたは本職の役者の前でやるのだから、ちょっと今夜は酷評して緊褌《きんこん》一番をうながしてみたんだがね。なに、上出来だよ。」
 僕は、だめかも知れない。思いは千々《ちぢ》に乱れるばかりだ。どうも日記の文章が、いつもと違っているようだ。たしかに気持も、いや気持がちがうというのは、気違いの事だ。まさか、気違いではなかろうが、今夜は変だ。文章も、しどろもどろの滅《め》っ茶苦茶《ちゃくちゃ》だ。麻の如《ごと》くに乱れて居《お》ります。
 こんな事でどうする。あすは、いや、もう十二時を過ぎているから、きょうだ、きょうの午後一時には試験があるのだ。何かしようと思っても、なんにも手がつかず、仕方が無い、万年筆にインクでもつめて置いて、そうして寝る事にしましょう。考えてみると、明日の試験に失敗したら、僕は死なねばならぬ身なのである。手が震える。


 五月九日。火曜日。
 晴れ。きょうも学校を休む。大事な日なんだから仕方が無い。ゆうべは夢ばかり見ていた。着物の上に襦袢《じゅばん》を着た夢を見た。あべこべである。へんな形であった。不吉な夢であった。さいさきが悪いと思った。
 きょうは、でも、ちかごろにない佳いお天気だった。九時に起きて、ゆっくり風呂《ふろ》へはいって、十一時半に出発した。きょうは兄さんは、門口まで見送って来ない。もう大丈夫だときめてしまっているらしい。斎藤氏のところへ出掛ける時には、兄さんは、僕以上に緊張し、気をもんでくれたのに、きょうは、まるでのんびりしていた。試験よりも、斎藤氏の方が大問題だと思っているのかしら。兄さんには、学校の入学試験でも何でも、どうも試験を甘く見すぎる傾向がある。入学試験に落ちた憂目《うきめ》を見た事がないからかも知れない。でも兄さんが、もう大丈夫と僕の事を楽天的に考えている時に僕が見事落ちたら、その辛《つら》さ、間《ま》の悪さは格別だ。も少し、僕の事を危ぶんでくれてもいいと思う。僕は、また落ちるかも知れないのだ。
 出発の時間が早すぎた。新富町の研究所はすぐにわかった。アパートの三階である。到着したのは、正午すこし過ぎである。ちょっと様子をさぐってみようと思って、ドアをノックしてみたが返答は無い。誰《だれ》もいないらしい。あきらめて、外へ出た。
 陽春。額《ひたい》に汗がにじみ出る。つめたいものを飲みたくなって、昭和通りの小さい食堂へはいって、ソーダ水を飲んで、それからついでに、ライスカレーを食べた。別に、おなかが空《す》いていたわけではなかったが、なんだか不安で、食べずには、居られなかったのだ。おなかが一ぱいになったら、頭もぼんやりして来て、いらだたしい気持も、少しおさまった。そこを出て、ぶらぶら歌舞伎座《かぶきざ》の前まで行って、絵看板を見て、さて、それからまた新富町の研究所へ引返した。
 それこそ一時ジャストである。僕は、アパートの階段をのぼった。来ている。来ている。二十人くらい。でもまあ、なんて生気《せいき》の無い顔をした奴《やつ》ばかりなんだろう。学生が五人。女が三人。ひでえ女だ。永遠に、従妹《いとこ》ベット一役《ひとやく》だ。他は皆、生活に疲れた顔をした背広姿の三十前後の人たちである。全然、芸術に縁のないような表情の、番頭さんみたいな四十男もいる。不思議な気がした。みんな神妙に、伏目《ふしめ》になって、廊下の壁に寄りかかり、立ったりしゃがんだりして、時々、ひそひそ話を交わしたりしている。暗い気がした。ここは、敗残者の来るところではないかと思った。自分まで、なんだか、みじめになったような気持がして来るのである。この人たちがきょうの、僕の競争相手なのかと思ったら、うんざりした。戦わずして、闘志を失った感じであった。僕が試験官だったら、一瞥《いちべつ》して、みんな落第だ。僕は、自分の今朝までの、あの興奮と緊張とを思い出し、むしゃくしゃして来た。ばかにしていやがると思ったのだ。
 やがて事務所から中年の婦人が出て来て、
「番号札をお渡し致します。」と言ったが、その声には、聞き覚えがあった。一週間前に電話で問い合せた時に、明瞭《めいりょう》な発音で「午後一時ジャスト」などと言って教えたあの女性の声であった。本当に綺麗《きれい》な声だったので、女優さんじゃないかと思っていたのだが、女は、声だけではわからぬものだ。茶色のダブダブしたジャケツを着て、女優さんどころか、いや、言うまい。何もその人が、あたしは美人だと自負してもいないのに、その人の顔の事など、とやかく批評するのは罪悪だ。とにかく、四十くらいの婆《ばあ》さんであった。
「お名前を呼びますから、御返事を願います。」
 僕は三番目だった。来ていない人も、ずいぶんあった。四十人くらいの名前を呼んだのだが、出席者は約その半数である。
「それでは、一番のおかた、どうぞ。」
 いよいよ、はじまるのだ。一番は、女のひとであった。婆さんに連れられて、しょんぼり中へはいって行った。生気のない事おびただしい。研究所の内部は、二部屋にわかれているらしい。一つは事務所で、その奥が稽古場《けいこば》になっているようだ。試験は、その稽古場で行われる様子である。
 聞える、聞える。戯曲の朗読だ。しめた! 桜の園だ。なんて、まがいいんでしょう。前から僕は、桜の園の朗読は得意だったし、ゆうべもちょっと練習したじゃないか。もう、大丈夫。どこからでも来い! と勇気百倍だったが、それにしても、あの女のひとの朗読は、なんて下手くそなんだろう。一本調子の棒読みだ。ところどころ躓《つまず》いて、読み直したりしている。あれじゃ落第だ。大落第だ。可笑《おか》しくなって、ひとりでクスクス笑ったが、他の人たちは、にこりともせず、眠るが如《ごと》くぼんやりしている。
「二ばんのおかた、どうぞ。」
 もう一番のひとがすんだのかしら。早いなあ。筆記試験は無いのかしら。この次は僕だ。さすがに脚がふるえて来た。なんだか、病院にいるような気がして来た。これから大手術を受けなければならぬ。看護婦さんの呼びに来るのを、待っている。お便所に行きたくなって来た。いそいでお便所に行く。お便所から帰って来たら、
「三ばんのおかた、どうぞ。」
「はい。」と思わず、右手を高く挙げた。
 事務所は、せまくるしく、しかも殺風景で、こんな所から、あの鴎座《かもめざ》の華やかなプランが生れるのかと、感慨が深かった。
 一番と二番は、ほとんど同時に終ったらしく、一緒に廊下へ出て行った。僕は、事務所の婆さんの机の前に立って、簡単な質問を受けた。婆さんは、椅子《いす》に浅くちょこんと腰をおろして、机の上の写真と、僕の顔を、ちらと見較べ、
「おいくつですか?」と言った。ちょっと侮辱を感じたので、
「履歴書に書いてなかった?」と反問したら、急に狼狽《ろうばい》の様子で、
「ええ、でも、――」と言って、机の上にひろげてあった僕の履歴書を前こごみになって調べた。近眼らしい。
「十七です。」と言ったら、ほっとしたように顔を挙げて、
「父兄の承諾は、たしかですね?」
 この質問も不愉快だった。
「もちろんです。」と少し怒って答えた。試験官でもないのに、要らない事ばかり言いやがる。こんな機会をとらえて、こっそり試験官の真似《まね》をして、ちょっと威張ってみたかったのだろう。
「では、どうぞ。」
 隣室に通された。がやがや騒いでいたのに、僕がはいって行ったら、ぴたりと話をやめて、五人の男が一斉《いっせい》に顔を挙げて僕を見た。
 五人の男が一列に、こちら向きに並んで腰かけている。テエブルは三つ。みんな写真で見覚えのある顔だった。まんなかに坐っている太った男は、最近めっきり流行して来た劇作家兼演出家の、横沢太郎氏にちがいない。あとの四人は、俳優らしい。入口でもじもじしていたら、横沢氏は大きい声で、
「こっちへ来いよ。」と下品な口調で言って、「こんどは多少、優秀かな?」
 他の試験官たちは、にやりと笑った。部屋全体の雰囲気《ふんいき》が、不潔で下等な感じであった。
「学校は、どこだ!」そんなに威張らなくてもいいじゃないか。
「R大です。」
「としは、なんぼ?」いやになるね。
「十七です。」
「お父さんのゆるしを得たか。」まるで罪人あつかいだ。むかっとして来た。
「お父さんはいませんよ。」
「なくなられたのですか?」俳優の上杉新介《うえすぎしんすけ》氏らしい人が、傍《そば》から、とりなし顔にやさしく僕に尋ねる。
「承諾書に書いてあった筈《はず》です。」仏頂面《ぶっちょうづら》して答えてやった。これが試験か? あきれるばかりだ。
「気骨|稜々《りょうりょう》だね。」横沢氏は、にやにや笑って、「見どころあり、かね?」
「演技部ですか、文芸部ですか?」上杉氏が鉛筆でご自分の顎を軽く叩《たた》きながら尋ねる。
「なんですか?」よくわからなかった。
「役者になるのか。」横沢氏は、また馬鹿声を出して、「脚本家になるのか。どっちだ!」
「役者です。」即座に答えた。
「しからば、たずねる。」本気か冗談か、わけがわからない。どうして横沢氏は、こんなに柄《がら》が悪いんだろう。人相だってよくないし、服装だって、和服の着流しで、だらしがない。日本で有数の文化的な劇団「鴎座」の、これが指導者なのかと思うと、がっかりする。きっと、お酒ばかり飲んで、ちっとも勉強していないのだろう。下唇《したくちびる》をぐっと突き出して、しばらく考えてから、やおら御質問。
「役者の、使命は、何か!」愚問なり。おどろいた。あやうく失笑しかけた。まるで、でたらめの質問である。質問者の頭のからっぽなことを、あますところなく露呈している。てんで、答えようがないのである。
「それは、人間がどんな使命を持って生れたか、というような質問と同じ事で、まことしやかな、いつわりの返答は、いくらでも言えるのですが、僕は、その使命は、まだわかりませんと答えたいのです。」
「妙な事を言うね。」横沢氏は、鈍感な人である。軽い口調でそう言って、シガレットケースから煙草《たばこ》を取り出し、一本口にくわえて、「マッチないか?」と、隣の上杉氏からマッチを借り、煙草に点火してから、「役者の使命はね、外に向っては民衆の教化、内に於《おい》ては集団生活の模範的実践。そうじゃないかね。」
 僕は、あきれた。落第したほうが、むしろ名誉だと思った。
「それは、役者に限らず、教化団体の人なら誰でも心掛けていなければならぬ事で、だから僕がさっき言ったように、そんな立派そうな抽象的な言葉は、本当に、いくらでも言えるんです。そうしてそれは、みんなうそです。」
「そうかね。」横沢氏は、けろりとしている。あまりの無神経に、僕は横沢氏を、ちょっと好きになったくらいであった。「そういう考えかたも、面白《おもしろ》いね。」滅茶滅茶だ。
「朗読をお願いしましょう。」上杉氏は、ちょっと上品に気取って言った。その態度には、なんだか猫《ねこ》のような、陰性の敵意が含まれていた。横沢氏よりも、こっちが手剛《てごわ》い。そんな気がした。
「何をお願いしましょうか。」上杉氏は、くそ叮嚀《ていねい》な口調で、横沢氏に尋ねるのである。「このひとは、程度が高いそうですから。」いやな言いかたを、しやがる! 卑
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