だけは、よしてくれねえかな。」
「あらためます。」姉さんは浮き浮きしている。「だって鈴岡がそう言うもんだから、私までつい口癖になって。」僕には、おのろけのように聞えた。けれども、それをひやかすのは下品な事だ。
「僕も悪かったし、兄さんだって、うっかりしてたところがあったんだ。叔母さん、ごめんね。さっきはあんな乱暴な事ばかり言って。」と叔母さんの御機嫌もとって置いた。
「それぁ私だって、まるくおさまったら、これに越した事は、ないと思っていたさ。」叔母さんも、さすがに機を見るに敏《びん》である。くるりと態度をかえていた。「だけど、進ちゃんも、利巧になったねえ。舌を巻いたよ。でもね、あの、チョッピリだの何だのと言って、年寄りをひやかすのだけは、やめておくれ。」
「あらためます。」
僕は、いい気持だった。叔母さんのところで夕ごはんをごちそうになって、家へ帰った。
その夜ほど、兄さんの帰宅を待ちこがれた事が無い。お母さんは、僕が目黒の家で晩ごはんをたべて来たという事を聞いて、やたらに姉さんの様子を知りたがり、何かとうるさく問い掛けるのであるが、僕は、教えるのが、なんだか惜しくて、要領を得ないような事ばかり言って、あとで兄さんからお聞きなさいよ、僕には、よくわからないんだもの、とごまかして、お母さんの部屋から逃げ出してしまった。
十一時ごろ、兄さんは、ひどく酔っぱらって帰って来た。僕は、兄さんの部屋へついて行って、
「兄さん、お水を持って来てあげようか。」
「要らねえよ。」
「兄さん、ネクタイをほどいてあげようか。」
「要らねえよ。」
「兄さん、ズボンを寝押《ねおし》してあげようか。」
「うるせえな。早く寝ろ。風邪は、もういいのか。」
「風邪なんて、忘れちゃったよ。僕は、きょう目黒へ行って来たんだよ。」
「学校を、さぼったな。」
「学校の帰りに寄って来たんだよ。姉さんがね、兄さんによろしくって言ってたぜ。」
「聞く耳は持たん、と言ってやれ。進も、いい加減に、あの姉さんをあきらめたほうがいいぜ。よその人だ。」
「姉さんは、僕たちの事を、とっても思っているんだねえ。ほろりとしちゃった。」
「何を言ってやがる。早く寝ろ。そんなつまらぬ事に関心を持っているようでは、とても日本一の俳優にはなれやしない。このごろ、さっぱり勉強もしていないようじゃないか。兄さんには、なんでもよくわかっているんだぜ。」
「兄さんだって、ちっとも勉強してないじゃないか。毎日、お酒ばかり飲んで。」
「生意気言うな、生意気を。鈴岡さんにすまないと思うから、――」
「だから、鈴岡さんをよろこばせてあげたらいいじゃないか。姉さんは、鈴岡さんを、ちっともきらいじゃないんだとさ。」
「お前には、そう言うんだよ。進も、とうとう買収されたな。」
「カステラなんかで買収されてたまるもんか。チョッピリ、いや、叔母さんがいけないんだよ。叔母さんが、けしかけたんだ。財産を知らせないとか何とか下品な事を言っていたぜ。でも、そいつは重大じゃないんだ。本当は、僕たちが、いけなかったんだ。」
「なぜだ。どこがいけないんだ。僕は、失敬して寝るぜ。」兄さんは、寝巻に着換えて、蒲団《ふとん》へもぐり込んでしまった。僕は部屋を暗くして、電気スタンドをつけてやった。
「兄さん。姉さんが泣いていたぜ。兄さんが、毎晩そとへ出てお酒を飲んで夜おそくまで帰って来ないと言ったら、姉さんは、めそめそ泣いたぜ。」
「それあぁ泣くわけだ。自分でわがままを言って、みんなを苦しめているんだから。進、そこから煙草《たばこ》をとってくれ。」兄さんは寝床に腹這《はらば》いになった。僕はライタアで、煙草に火をつけてあげて、
「そうしてね、進も兄さんも、下谷の家が大きらいなんだろう? って言ってたぜ。」
「へえ? 妙な事を言いやがる。」
「だって、そうだったじゃないか。いまは違うけど、前は、兄さんだって下谷の家へ、ちっとも遊びに行かなかったじゃないか。」
「お前も行かなかったぞ。」
「そう、僕も悪かったんだ。なにせ、柔道四段だっていうんで、こわくってね。」
「俊雄君の事も、お前はひどく軽蔑《けいべつ》してたぜ。」
「軽蔑ってわけじゃないけど、なんだか、逢《あ》いたくなかったんだ。気が重くてね。でも、これからは、仲良くするんだ。よく考えてみたら、いい顔だった。」
「ばか。」兄さんは、笑った。「鈴岡さんも俊雄君も、とてもいい人だよ。やっぱり、苦労して来た人たちは、違うね。以前だって、悪い人だとは思っていなかったけど、また、悪い人だと思ったら姉さんをお嫁になんかやりゃしないんだけど、あんなにいい人だとは思わなかった。こんど、つくづくそう思った。姉さんには、鈴岡さんのよさが、まだよくわかっていないんだ。なんだい、僕たちが遊びに行かないから鈴岡さんと、わかれるって言うのかい? ちっとも、なってないじゃないか。それが、わがままというものなんだ。十九や二十《はたち》のお嬢さんじゃあるまいし、なんてざまだ。」なかなか、ゆずらない。戸主の見識《けんしき》というものかも知れない。
「それぁ、姉さんにだって、鈴岡さんのよさくらい、ちゃんとわかっているんだ。」僕は必死であった。「その鈴岡さんと、僕たちと、どうも気が合わないらしいというので、姉さんは考えてしまったんだ。姉さんは、とても兄さんや僕の事を大事にしているんだぜ。僕たちも、いけなかったんだよ。よそへ嫁にやったから、他人だなんて、そんな事は無いと思うよ。」
「じゃいったい、僕にどうしろっていうんだ。」兄さんも真剣になって来た。
「別に、どうしなくても、いいんだ。姉さんは、もう大喜びだよ。兄さんと鈴岡さんが、このごろ毎晩お酒を飲んで共鳴してるって僕が言ったら、姉さんは、ほんと? と言ってその時の嬉《うれ》しそうな顔ったら。」
「そうか。」溜息《ためいき》をついた。しばらくじっとしていて、「よし、わかった。僕も悪い。」兄さんはむっくり起きて、「十二時か、進、かまわないから鈴岡さんに電話をかけて、いますぐ兄さんがお伺いしますからって、それから、朝日タクシイにも電話をかけて、大至急一台たのんでくれ。その間に僕は、ちょっとお母さんに話して来るから。」
兄さんを下谷へ送り出してから、僕は落ちついてその日の日記にとりかかったが、さすがに疲れて、中途でよして寝てしまった。兄さんは、下谷の家へ泊った。
きょう、学校から帰って来ると、兄さんは、にやにや笑いながら、なんにも言わずお母さんの部屋に連れて行った。
お母さんの枕《まくら》もとには、鈴岡さんと姉さんとが坐《すわ》っていた。僕が、その傍《そば》へ坐って、笑いながらお二人にお辞儀をしたら、
「進ちゃん!」と言って、姉さんが泣いた。姉さんは、お嫁に行く朝にも、こんなふうに僕の名を呼んで泣いた。
兄さんは、廊下に立って渋く笑っていた。僕は、少し泣いた。お母さんは寝たままで、
「きょうだい仲良く、――」を、また言った。
神さま、僕たち一家をまもって下さい。僕は勉強します。
あしたは、姉さんの結婚満一周年記念日だそうだ。兄さんと相談して、何か贈り物をしようと思う。
四月二十八日。金曜日。
晴れ。よく考えてみると、いやしくも男子たるものが、たかが一家内のいざこざの為《ため》に、その全力を尽して奔走し、何か大事業でもやっているような気持で、いささか得意になっているというのは、恥ずかしい事である。家庭の平和も大切ではあるが、理想に邁進《まいしん》している男子にとっては、もっともっと外部に対しても強くならなければならぬ。きょう、学校へ行って、つくづくその事を痛感した。家の中で、お母さんや、兄さん、姉さんたちに甘やかされ、お利巧者だとほめられて、たいへん偉いような気がして、一歩そとへ出ると、たちまちひどい目に逢ってしまう。みじめなものだ。有頂天の直後に、かならずどん底の失意に襲われるのは、これは、どうやら僕の宿命らしい。世の中というものは、どうしてこんなにケチくさく、お互いに不必要な敵意に燃えているのか、いやになってしまう。
けさ、大学の正門前でバスから降りた、とたんに、こないだの蹴球部の本科生と逢った。あの日、僕を捜しに教室へやって来た鬚《ひげ》もじゃの学生である。僕は、その人に好意を感じていたのだから、早速にっこり笑って、
「おはようございます。」と活溌《かっぱつ》に言った。すると、ひどいじゃないか、その学生は、実にいやな、憎しみの眼で、チラと僕を見たきりで、さっさと正門へはいって行ってしまった。こないだのあの無邪気なあわて者とは、まるで別人の感じなのだ。その眼つきは、なんとも言えない、あさはかなものだった。蹴球部へはいらないからと言って、急に、あんなに態度を変えなくたっていいじゃないか。同じR大生じゃないか。馬鹿野郎! と背後から怒鳴りつけてやりたかった。もう、二十四、五にもなっているのだろう。いいとしをして、本気に僕を憎んでいやがる。僕は、その学生を極度に軽蔑すると共に、なんだか悪い人間性を見つけたような気がして、ひどく淋《さび》しくなってしまった。きのうまでの幸福感が、一瞬にして、奈落《ならく》のどん底にたたき込まれたような気がした。ケチな、ケチな小市民根性。彼等《かれら》のその醜いケチな根性が、どんなに僕たちの伸び伸びした生活をむざんに傷つけ、興覚《きょうざ》めさせている事か。しかも自分の流している害毒を反省するどころか、てんで何も気がついていないのだから驚く。馬鹿ほどこわいものがないとは此《こ》の事だ。これだから、学校がいやになるのだ。学校は、学問するところではなくて、くだらない社交に骨折るだけの場所である。きょうもクラスの生徒たちは、少女|倶楽部《クラブ》、少女の友、スター等《など》の雑誌をポケットにつっこんで、ぶらりぶらりと教室にやって来る。学生ほど、今日、無智《むち》なものはない。つくづく、いやになってしまう。授業がはじまる迄《まで》は、子供のおもちゃの紙飛行機をぶっつけ合ったり、すげえすげえ、とくだらぬ事に驚き合ったり、卑猥《ひわい》な身振りをしたり、それでいて、先生が来ると急にこそこそして、どんなつまらぬ講義でも、いかにも神妙に拝聴しているという始末。そうして学校がすめば、さあきょうは銀座に出るぜ! などと生きかえったみたいに得意になって騒ぎたてる。けさも教室でひとしきり、ぎゃあぎゃあ大騒ぎだった。何事かと思ったら、昨晩、Kというクラスの色男が、恋人らしい女と一緒に銀座を歩いていたというのだ。それで、その色男が教室へはいって来たら、たちまち、ぎゃあぎゃあの騒ぎになったのである。あさましいというより他《ほか》は無い。ひねこびた色気の、はきだめという感じである。みんなに野次られて顔を赤くしながらも、それでもまんざらでもなさそうに、にやにやしているKもKだが、それを、やあやあと言って野次っている学生は、いったい、何のつもりなんだろう。わけがわからない。不潔だ! 卑劣だ。ばかな騒ぎを、離れて見ているうちに、激しい憤怒が湧《わ》いて来た。赦《ゆる》せないような気がして来た。もう、こんな奴等《やつら》とは、口もきくまいと思った。仲間はずれでも、よろしい。こんな仲間にはいって、無理にくだらなくなる必要はない。ああ、ロマンチックな学生諸君! 青春は、たのしいものらしいねえ。馬鹿野郎。君等は、なんのために生きているのか。君等の理想は、なんですか。なるたけ、あたり触りの無いように、ほどよく遊んでいい気持になって、つつがなく大学を卒業し、背広を新調して会社につとめ、可愛《かわい》いお嫁さんをもらって月給のあがるのをたのしみにして、一生平和に暮すつもりで居るんでしょうが、お生憎《あいにく》さま、そうは行かないかも知れませんよ。思いもかけない事が起りますよ。覚悟は出来ていますか。可哀想《かわいそう》に、なんにも知らない。無智だ。
朝から、もういい加減に腐っていたら、午後になって僕が教練に出ようとして、ふと、ゲエトルを忘れて来たのに気附いて、あわてて隣
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