んは、まだお若いようですね。」どうも痛い。からめ手から来られては、かなわない。
「はあ、二十六です。」
「兄さんおひとりの承諾で大丈夫でしょうか。」本当に心配そうな口調である。この口頭試問の主任みたいな人は、よっぽど世の中の苦労をして来た人に違いないと僕は思った。
「それは大丈夫です。兄さんは、とても頑張《がんば》りますから。」
「頑張りますか。」ほがらかそうに笑った。他の二人のひとたちも、顔を見合せてにこにこ笑った。
「ファウストをお読みになったのですね? あなたがひとりで選んだのですか?」
「いいえ、兄さんにも相談しました。」
「それじゃ、兄さんが選んで下さったのですね?」
「いいえ、兄さんと相談しても、なかなかきまらないので、僕がひとりで、きめてしまったのです。」
「失礼ですけど、ファウストがよくわかりますか?」
「ちっともわかりません。でもあれには大事な思い出があるんです。」
「そうですか。」また笑い出した。「思い出があるんですか」柔和な眼で僕の顔を見つめて、
「スポーツは何をおやりです?」
「中学時代に蹴球《しゅうきゅう》を少しやりました。いまは、よしていますけど。」
「選手でしたか?」
 それからそれと、とてもこまかい所まで尋ねる。お母さんが病気だと言ったら、その病状まで熱心に尋ねる。ちかい親戚《しんせき》には、どんな人がいるのか、とか、兄さんの後見人とでもいうような人がいるのか、とか、家庭の状態に就いての質問が一ばん多かった。でも自然にすらすらと尋ねるので、こちらも気楽に答える事が出来て、不愉快ではなかった。最後に、
「春秋座の、どこが気にいりましたか?」
「べつに。」
「え?」試験官たちは、一斉《いっせい》にさっと緊張したようであった。主任のひとも、眉間《みけん》にありありと不快の表情を示して、「じゃ、なぜ春秋座へはいろうと思ったのですか?」
「僕は、なんにも知らないんです。立派な劇団だとは、ぼんやり思っていたのですけど。」
「ただ、まあ、ふらりと?」
「いいえ、僕は、役者にならなけれぁ、他に、行くところが無かったんです。それで、困って、或《あ》る人に相談したら、その人は、紙に、春秋座と書いてくれたんです。」
「紙に、ですか?」
「その人はなんだか変なのです。僕が相談に行った時は風邪気味だとかいって逢ってくれなかったのです。だから僕は玄関で、いい劇団を教えて下さいって洋箋《ようせん》に書いて、女中さんだか秘書だか、とてもよく笑う女のひとにそれを手渡して取りついでもらったんです。すると、その女のひとが奥から返事の紙を持って来たんです。けれども、その紙には、春秋座、と三文字書かれていただけなんです。」
「どなたですか、それは?」主任は眼を丸くして尋ねた。
「僕の先生です。でも、それは、僕がひとりで勝手にそう思い込んでいるので、向うでは僕なんかを全然問題にしていないかも知れません。でも、僕はその人を、僕の生涯《しょうがい》の先生だと、きめてしまっているんです。僕はまだその人と、たった一回しか話をした事がないんです。追いかけて行って自動車に一緒に乗せてもらったんです。」
「いったい、どなたですか。どうやら劇壇のおかたらしいですね。」
「それは、言いたくないんです。たったいちど、自動車に乗せてもらって話をしたきりなのに、もう、その人の名前を利用するような事になると、さもしいみたいだから、いやなんです。」
「わかりました。」主任は、まじめに首肯《うなず》いて、「それで? その人が、春秋座、と書いて下さったので、まっすぐにこっちへ飛び込んで来たというわけですね?」
「そうです。ただ春秋座へはいれって言ったって無理です、と僕はその時に女中さんに不平を言ったんです。すると、襖《ふすま》の陰から、ひとりでやれっ! と怒鳴ったんです。先生が襖の陰に立って聞いていたんです。だから僕は、びっくりして、――」
 若い二人の試験官たちは声を立てて笑った。けれども、主任のひとは、そんなに笑わず、
「痛快な先生ですね。斎藤先生でしょう?」と事もなげに言った。
「それは言われないんです。」僕も笑いながら、「僕がもっと偉くなってから、教えます。」
「そうですか。それじゃ、これだけで、よろしゅうございます。どうも、きょうは、御苦労さまでした。食事は、すみましたね?」
「はあ、いただきました。」
「それでは、二、三日中に、また何か通知が行くかも知れませんが、もし、二、三日中に何も通知が無かった場合には、またもういちど、その先生のところへ相談にいらっしゃるのですね。」
「そのつもりで居《お》ります。」
 これで、きょうの試験が、全部、すんだのである。満ち足りた、おだやかな気持で、家へ帰った。晩は、兄さんと二人で芹川式のビフテーキを作って食べた。おシュン婆
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