べ、と言われると実際、迷ってしまうのだ。まごまごしているうちに試験の期日は切迫して来る。いっそこうなれば「桜の園」のロパーヒンでもやろうか。いや、それくらいなら、ファウストがいい。あの台詞は、鴎座の試験の、とっさの場合に僕が直感で見つけたものだ。記念すべき台詞だ。きっと僕の宿命に、何か、つながりのあるものに相違ない。ファウストにきめてしまえ! という事になったのである。このファウストのために失敗したって僕には悔いがない。誰はばかるところなく読み上げた。読みながら、とても涼しい気持がした。大丈夫、大丈夫、誰かが背後でそう言っているような気もした。
 人生は彩《いろど》られた影の上にある! と読み終って思わずにっこり笑ってしまった。なんだか、嬉《うれ》しかったのである。試験なんて、もう、どうだっていいというような気がして来た。
「御苦労さまです。」国十郎氏は、ちょっと頭をさげて、「もう一つ、こちらからのお願い。」
「はあ。」
「ただいま向うでお書きになった答案を、ここで読みあげて下さい。」
「答案? これですか?」僕はどぎまぎした。
「ええ。」笑っている。
 これには、ちょっと閉口だった。でも春秋座の人たちも、なかなか頭がいいと思った。これなら、あとで答案をいちいち調べる手数もはぶけるし、時間の経済にもなるし、くだらない事を書いてあった場合には朗読も、しどろもどろになって、その文章の欠点も、いよいよハッキリして来るであろうし、これには一本、やられた形だった。けれども、気を取り直して、ゆっくり、悪びれずに読んだ。声には少しも抑揚をつけず、自然の調子で読んだ。
「よろしゅうございます。その答案は置いて行って、どうぞ控室でお待ちになっていて下さい。」
 僕はぴょこんとお辞儀をして廊下に出た。背中に汗をびっしょりかいているのに、その時はじめて気がついた。控室に帰って、部屋の壁によりかかってあぐらを掻《か》き、三十分くらい待っているうちに、僕と同じ組の四人の受験生も順々に帰って来た。みんなそろった時に、また番頭さんが迎えに来て、こんどは体操だ。風呂場《ふろば》の脱衣場みたいな、がらんと広い板敷の部屋に通された。なんという俳優か名前はわからなかったが角帯をしめた四十歳前後の相当の幹部らしいひとが二人、部屋の隅《すみ》の籐椅子《とういす》に腰かけていた。若い、事務員みたいな人が白ズボンにワイシャツという姿で、僕たちに号令をかけるのである。和服の人は着物をみな脱がなければならないが、洋服の人は単に上衣《うわぎ》を脱ぐだけでよろしいという事であって、僕たちの組の人は全部洋服だったので、身支度にも手間《てま》がかからず、すぐに体操が始まった。五人一緒に、右向け、左向け、廻《まわ》れ右、すすめ、駈足《かけあし》、とまれ、それからラジオ体操みたいなものをやって、最後に自分の姓名を順々に大声で報告して、終り。簡単なる体操、と手紙には書いてあったが、そんなに簡単でもなかった。ちょっと疲れたくらいだった。控室へ帰ってみると、控室には一列に食卓が並べられていて、受験生たちはぼつぼつ食事をはじめていた。天丼《てんどん》である。おそばやの小僧さんのようなひとが二人、れいの番頭さんに指図されて、あちこち歩きまわってお茶をいれたり、丼《どんぶり》を持ち運んだりしている。ずいぶん暑い。僕は汗をだらだら流して天丼をたべた。どうしても全部たべ切れなかった。
 最後は口頭試問であった。番頭さんに一人ずつ呼ばれて、連れられて行く。口頭試問の部屋は、さっきの朗読の部屋であった。けれども部屋の中の雰囲気は、すっかり違っていた。ごたごた、ひどくちらかっていた。大きい二つの食卓は、ぴったりくっつけられて、文芸部とか企劃部《きかくぶ》とか、いずれそんなところの人たちであろう、髪を長くのばして顔色のよくないひとばかり三人、上衣を脱いでくつろいだ姿勢で食卓に肘《ひじ》をつき、食卓の上には、たくさんの書類が雑然とちらかっている。飲みかけのアイスコーヒーのグラスもある。
「お坐りなさい。あぐら、あぐら。」と一ばんの年長者らしい人が僕に座布団《ざぶとん》をすすめる。
「芹川《せりかわ》さんでしたね。」と言って、卓上の書類の中から、僕の履歴書や写真などを選び出して、
「大学は、つづけておやりになるつもりですか?」まさに、核心《かくしん》をついた質問だった。僕の悩みも、それなんだ。手きびしいと思った。
「考え中です。」ありのままを答える。
「両方は無理ですよ。」追撃急である。
「それは、」僕は小さい溜息《ためいき》をついた。「採用されてから、」言葉がとぎれた。
「それゃまあ、そうですが。」相手は敏感に察して笑い出した。「まだ採用と、きまっているわけでもないのですものね。愚問だったかな? 失礼ですが、兄さ
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