。どうにも、落ちつけないのである。言いたい事、書きたい事は山々ある。けれども、いたずらに感情が高ぶって、わくわくしてしまって、坐《すわ》って居られなくなるのだ。そうして、ただやたらに部屋の整頓である。こっちのものを、あっちへ持ち運び、あっちのものを、こっちへ持ち運び、まるで同じ事を繰り返して、独りで、てんてこ舞いをしているのである。恥ずかしい事であるが、実は、聖書もききめがなかったのだ。けさから、パッパッと三度もひらいてみたのだが、少しも頭にはいらない。実に恥ずかしかった。もう、だめだ。僕は寝よう。午後六時。お念仏でも称《とな》えたい。キリストも、おしゃかさんも、ごちゃまぜになった。
 ちょっと寝てから、また猛然とはね起きた。日が暮れてしまったら、少し心も落ちついて来た。きのう写真屋から送られて来た手札型の写真を見つめる。同じものが三枚送られて来たのだが、その中でも割合、顔の色が黒く、陰影のあるのを選んで履歴書などと一緒に、きのう速達で研究所へ送ってやったのである。どうして僕の顔は、こんなに、らっきょうのように、単純なのだろう。眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、複雑な顔を作ろうと思うのだが、ピリピリッと皺が寄ったかと思うと、すぐに消える。口を、ヘの字形に曲げて、鼻の両側に深い皺を作りたいのだが、どうも、うまく行かない。口が小さすぎるのかも知れない。曲がらないで、とがるのである。口を、どんなに、とがらせたって、陰影のある顔にはならない。馬鹿に見えるだけである。
「お前の顔は、役者に向かない顔である。」と明日の試験で、はっきり宣告されたら、どうしよう。僕は、その瞬間から、それこそ「生ける屍《しかばね》」になるのだ。生きていても、意味の無い人間になるのだ。ああ、僕に果して、演劇の才能があるのだろうか。すべては明日、決定せられる。また、部屋の整頓を、はじめたくなった。
 兄さんがやって来て、
「床屋へ行ったか?」と尋ねる。まだ行っていないのである。
 雨の中を、あたふたと床屋へ行く。実際、なってない。床屋で、ドボルジャークの「新世界」を聞く。ラジオ放送である。好きな曲なんだけれど、どうしても、気持にはいって来ない。大きな、櫓太鼓《やぐらだいこ》みたいなものを、めった矢鱈《やたら》に打ちならすような音楽でもあったら、いまの僕のいらいらした気持にぴったり来るのかも知れない。けれども、そんな音楽は、世界中を捜してもないだろう。
 床屋から帰って、それから、兄さんにすすめられて科白《せりふ》の練習を少しやってみた。桜の園のロパーヒン。
 兄さんに、いろいろ注意された。自分の声をそのまま出して自然に言う事。もっとおなかに力をいれて、ハッキリ言う事。あまり、からだを動かさない事。いちいち顎《あご》をひかない事。口辺の筋肉を、もっとやわらかに。これは手痛かった。口を、ヘの字に曲げようと努力しすぎたのだ。
「お前は、サシスセソが、うまく言えないようだね。」これも手痛かった。自分でも、それは薄々感じていたのだ。舌が長すぎるのだろうか。
「妄言《ぼうげん》多謝だ。」兄さんは笑って、「お前は、僕なんかに較《くら》べると問題にならないほど、うまいんだ。でも、あしたは本職の役者の前でやるのだから、ちょっと今夜は酷評して緊褌《きんこん》一番をうながしてみたんだがね。なに、上出来だよ。」
 僕は、だめかも知れない。思いは千々《ちぢ》に乱れるばかりだ。どうも日記の文章が、いつもと違っているようだ。たしかに気持も、いや気持がちがうというのは、気違いの事だ。まさか、気違いではなかろうが、今夜は変だ。文章も、しどろもどろの滅《め》っ茶苦茶《ちゃくちゃ》だ。麻の如《ごと》くに乱れて居《お》ります。
 こんな事でどうする。あすは、いや、もう十二時を過ぎているから、きょうだ、きょうの午後一時には試験があるのだ。何かしようと思っても、なんにも手がつかず、仕方が無い、万年筆にインクでもつめて置いて、そうして寝る事にしましょう。考えてみると、明日の試験に失敗したら、僕は死なねばならぬ身なのである。手が震える。


 五月九日。火曜日。
 晴れ。きょうも学校を休む。大事な日なんだから仕方が無い。ゆうべは夢ばかり見ていた。着物の上に襦袢《じゅばん》を着た夢を見た。あべこべである。へんな形であった。不吉な夢であった。さいさきが悪いと思った。
 きょうは、でも、ちかごろにない佳いお天気だった。九時に起きて、ゆっくり風呂《ふろ》へはいって、十一時半に出発した。きょうは兄さんは、門口まで見送って来ない。もう大丈夫だときめてしまっているらしい。斎藤氏のところへ出掛ける時には、兄さんは、僕以上に緊張し、気をもんでくれたのに、きょうは、まるでのんびりしていた。試験よりも、斎藤氏の方が大問題だと思って
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