のに骨を折った。兄さんが、銀座のプレイガイドに勤めている兄さんの知人に電話をかけて、調査をたのみ、やっと判明した。
「さあ、これからは、お前がなんでも、ひとりでやってごらん。」兄さんは、そう言って僕に受話器を渡した。僕は、さすがに緊張した。
鴎座の事務所に電話をかけたら、女のひとが出て、或《ある》いは有名な女優かも知れない、媚《こ》びたところも無く自然の、歯切れのよい言葉で、ていねいに教えてくれた。自筆の履歴書、父兄の承諾証書、共に形式は自由、各一通、ほかに手札型・上半身の最近の写真一葉、それだけを五月八日までに、事務所に提出の事。
「五月八日? じゃ、すぐですね?」胸がどきどきして、声が嗄れた。「それで? 試験は?」
「九日に、新富町《しんとみちょう》の研究所で行います。」
「へええ。」妙な声が出た。「何時《なんじ》からですか?」
「午後一時ジャストに、研究所へお集りを願います。」
「課目は? 課目は? どんな試験をするんですか?」
「それは申し上げられません。」
「へええ。」また妙な声が出た。「それじゃ、どうも。」電話を切った。
おどろいたのである。五月九日。もう一週間しかないじゃないか。何も、準備が出来やしない。
「簡単な試験なんだろう。」と兄さんは、のんきそうに言ってるけれど、そうも行かない。僕はこれから日本一の役者にならなければならぬ男だ。その男が、いま演劇の世界に第一歩を踏み出すに当って、まずい答案を書いたなら、一生消えない汚点をしるす事になる。かならず僕は、第一番の、それもずば抜けた成績を示さなければならぬ。学校の試験とは、ちがうのだ。学校の試験は、僕の将来の生活と、かならずしも直接には、結びつかなかったけれど、このたびの試験は、僕の窮極の生きる道に直接につながっているのだ。これに失敗したら、もう僕は他《ほか》に、どこへも行くところが無くなるのだ。学校の試験で失敗したって、「なあに僕には、別な佳《よ》い道があるのだ」と多少の余裕とプライドを持ちこたえている事が出来るけれど、こんどの試験では、「なあに」なんて言って居られぬ。もう道が無いのだ。何もないのだ。ぎりぎりの最後の切札《きりふだ》ではないか。とても、のんきにしては居られぬ。僕は、すっかり、まじめになってしまった。ちょっと自信は無いが、あの斎藤市蔵先生の、僕は弟子、みたいなものだ。向うでは問題にしていないかも知れぬが、僕はこれから、勝手にそう思い込んで、大いに自重しようと決意しているのだ。自動車に一緒に乗ったのだ。めったに、下手な答案などは書けない。斎藤氏のお顔にもかかわる事だ。畜生め。いまに斎藤氏をおどろかせてあげる。武家物語の重兵衛《じゅうべえ》の役は、芹川《せりかわ》でなくちゃだめだ、と斎藤氏が言うようになったら、うれしいだろうな。いや、甘い空想にふけっている場合ではない。僕は、ずば抜けて優秀な成績でパスしなければならぬのだ。
今夜は、今まで買いためて置いた参考書を、全部、机の上に積み重ねた。
プドフキン「映画俳優論」。コクラン「俳優芸術論」。タイロフ「解放された演劇」。岸田国士《きしだくにお》「近代劇論」。斎藤市蔵「芝居街道五十年」。バルハートゥイ「チェホフのドラマツルギー」。小山内薫「芝居入門」。小宮豊隆《こみやとよたか》「演劇|論叢《ろんそう》」。それから「築地《つきじ》小劇場史」だの「演出論」だの「映画俳優術」だの「演出者ノオト」だの、それから兄さんが貸してくれた「花伝書《かでんしょ》」。「役者論語」。「申楽談義《さるがくだんぎ》」。まずざっと二十冊ちかい之等《これら》の参考書を九日までに一とおり読んでみるつもりだ。それから、英語と仏蘭西《フランス》語の単語も、少し詰め込んで置きたい。
しっかりやらなければならぬ。今夜は、これから、コクランの「俳優芸術論」と、斎藤氏の「芝居街道五十年」を読破するつもりである。
あしたは、写真屋へ行かなければならぬ。
五月八日。月曜日。
雨。きょうは学校を休んだ。何が何やら、さっぱりわからなくなって、この貴重な一週間を、いったいどうして過したのか、学校へ行っても、そわそわして、何でもないのに、にやにや笑ったり、家に帰っては、やたらに部屋の整頓《せいとん》ばかりして、そうして、参考書は一冊も読まなかった。ただ、部屋の中で、うごめいているのである。気持は、刻一刻と狼狽《ろうばい》し、こうして日記を書いていても、手が震えるのである。つまり、あの、緊張したような、胆《きも》を失ったような、厳粛なような、からっぽのような、それでいて、絶えずはらはらして、絶間《たえま》なくお便所へ行っては、よしやろう、勉強しようと、武者ぶるいして部屋へ帰って、また部屋の整頓である。ゆるしてもらえないだろうか。だめなのである
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