越えてるかも知れん。」
「こんど、兄さんが行ったらいい。」
「場合に依っては、僕が行かなくちゃならないかも知れないが、まだ、その必要は無いようだ。お前は、そんなにしょげてるけど、きょうは、ちっとも失敗じゃなかったんだよ。お前にしては大出来だ。五月三日にまた来る、とはっきり言って来ただけでも大成功だよ。その女のひとは、お前に好意を持っているらしい。」
僕は、噴き出した。
「いや本当さ。」兄さんは真面目《まじめ》である。「ふつうの玄関払いとは性質が、ちがうようだ。脈があるよ。お仕事中は面会謝絶と極《きま》っているんだけど、特にお前のために、どうにかして取りついであげようと思ったんだが、奥さんか誰かに邪魔されて、それが出来なかったんだな。」兄さんの解釈は、どうも甘い。「きっとそうだよ。だからこんどはお前も、その女のひとを、にらんだりなんかしないで、も少しあいそよくしてあげるんだね。ちゃんとお辞儀をしてね。」
「しまった! きょうは帽子もとらない。」
「そうだろ。帽子もぬがずに、ただ、はったと睨《にら》んでいたんじゃ、ふつうだったら、まず交番に引渡されるところだ。その女のひとに理解があったから、たすかったのだ。来月の三日には、しっかりやるさ。」
けれども僕は絶望している。芸術の道にも、普通のサラリイマンの苦労と、ちっとも違わぬ俗な苦労も要るだろうという事は、まえから覚悟していたところで、それくらいの事には、へこたれはせぬけれど、僕がきょう斎藤氏邸からの帰り道、つくづく僕自身の無名、矮小《わいしょう》を思い知らされて、いやになったのだ。斎藤氏と僕、あまりにも違いすぎていたのだ。こんなに、雲と雑草ほどの距離があるとは、気がつかなかったのだ。やあ、と声を掛ければ、やあ、と答えてくれそうな気がしていたのだ。なんたる無邪気さであろう。きょうは全く、あの人と僕たちとは、人種がまるで、別なのではないかというような気がしたのである。努めて及ばぬ事やある、という言葉もあるけど、どんなに努めても及ばぬ事も、この世にはあるのではあるまいかと思って、うんざりしてしまったのだ。「日本一」の理想が、ふっ飛んじゃった。偉くなろうという努力が、ばからしいものに見えて来た。僕には、斎藤氏のように、あんな堂々たる牙城《がじょう》は、とても作れそうもないんだ。
夜は、兄さんに引っぱられて、ムーランルージュを見に行った。つまらなかった。少しも可笑《おか》しくなかった。
五月三日。水曜日。
晴れ。学校を休んで、芝の斎藤氏邸に、トボトボと出かける。トボトボという形容は、決して誇張ではなかった。実に、暗鬱《あんうつ》な気持であった。
ところが、きょうは、あまり悪くなかった。いや、そんなにもよくない。でも、まあ、いいほうかも知れない。
斎藤氏邸の門前には、自動車が一台とまっていた。僕が玄関のベルを押そうとしたら、急に玄関の内がさわがしくなって、がらりと玄関が内からあいて、痩《や》せた小さいお爺《じい》さんがひょいと出て、すたすた僕の前を歩いて行った。斎藤氏だ。その後を追うようにして、先日の女のひとが鞄《かばん》とステッキを持って玄関からあわてて出て来て、
「あら! いまおでかけのところなのよ。ちょうどいいわ、お話してごらんなさい。」
僕は帽子をとって、ちょっとその女の人にお辞儀をして、それから、すぐに斎藤氏のあとを追って、
「先生!」と呼んだ。斎藤氏は、振り向きもせず、すたすた歩いて門前に待っている自動車にさっさと乗ってしまった。僕は、自動車の窓に走り寄って、
「津田さんからの紹介状、――」と言いかけたら、じろりろ僕を見て、
「乗りたまえ。」と低い声で言った。しめたと思ってドアを開け、斎藤氏のすぐ傍《そば》にどさんと腰をおろした。あっ、運転手の傍に乗るのが礼儀だったのかも知れない、と思ったが、わざわざ向うへ乗りかえるのも、てれくさくて、そのままの姿勢でじっとしていた。
「よござんしたね。」女のひとは、窓から鞄とステッキを斎藤氏に手渡しながら、「こないだは、ずいぶん怒ってお帰りになりましたのよ。」と相変らず上機嫌《じょうきげん》に笑いながら、僕と斎藤氏と二人の顔を見較《みくら》べながら言った。
斎藤氏は、不機嫌そうに眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、何も言わなかった。やっぱり、怖い感じだ。運転台に乗ればよかった、とまた思った。
「行ってらっしゃいまし。」
自動車は走った。
「どちらへ、おいでになるんですか。」と僕は聞いた。斎藤氏は、返事をしなかった。五分も経《た》ってから、
「神田《かんだ》だ。」と重い口調で言った。ひどく嗄《しわが》れた声である。顔は、老俳優のように端麗《たんれい》である。また、しばらくは無言だ。ひどく窮屈である。圧迫が刻一刻と加わって来て
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