ペエジも一行も、頭にはいらない。寝よう。それが一ばんいいようだ。寝不足の顔で出かけて行って、第一印象を悪くしては損である。でも、とても眠れそうにもない。外では、工夫《こうふ》の夜業がはじまった。考えてみれば、夜の十時から朝の六時頃まで、毎日のようにやっている。約八時間の激しい労働である。エッサエッサと掛け声をかけてやっている。何をしているのだろう。マンホールからガス管でも、ひっぱり出しているのだろうか。あの掛け声は、兄さんの説に依れば、工夫自身の、ねむけざましになっているんだそうだ。そう思って聞くと、あの掛け声も、ひどく哀れに聞えて来る。いくら貰《もら》っているのかしら?
 聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ。
 いま聖書を取り出して、パッとひらいたら、次のような語句が眼にはいった。
「我は復活《よみがえり》なり、生命《いのち》なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡《およ》そ生きて我を信ずる者は、永遠《とこしえ》に死なざるべし。汝《なんじ》これを信ずるか。」
 忘れていた。僕は信ずる事が薄かった。何もかも、おまかせして、今夜は寝よう。僕はこのごろお祈りをさえ怠っていた。
 御意《みこころ》の天のごとく、地にも行われん事を。


 四月三十日。日曜日。
 晴れ。朝十時、兄さんに門口まで見送られて、出発した。握手したかったのだけれど、大袈裟《おおげさ》みたいだから、がまんした。一高を受ける時も、R大を受ける時も、こんなに緊張していなかった。R大の時など、その朝になって、はじめてはっと気附《きづ》いて、あわてて出発したくらいであった。
 人生の首途《かどで》。けさは、本当にそんな気がした。途中、電車の中で、なんども涙ぐんだ。そうして昼ごろ、ぼんやり家へ帰って来た。なんだか、へとへとに疲れた。
 芝の斎藤氏邸は、森閑としていた。平家《ひらや》の奥深そうな家であった。玄関のベルを、なんど押しても、森閑としている。猛犬でも出て来るんじゃないかと、びくびくしていたが、犬ころ一匹出て来る気配さえ無い。まごまごしていたら、庭の枝折戸《しおりど》から、
「ま! おどろいた。」と言って真赤な帯をしめた少女があらわれた。女中のようでもないし、まさか令嬢でもないだろう。気品が足りない。
「先生は御在宅ですか。」
「さあ。」あいまいな返事である。ただ、にこにこ笑っている。少し蓮《はす》っ葉《ぱ》だけど、感じはそんなに悪くない。親戚《しんせき》の娘さん、とでもいったところかも知れない。
「紹介状を持って来ましたけど。」
「そうですか。」娘さんは素直に紹介状を受け取った。「少しお待ち下さい。」
 まずよし、と僕は、ほくそ笑んだ。それからがいけなかった。しばらくして娘さんが、また庭のほうからやって来て、
「ご用は、なんでしょうか。」
 これには困った。簡単には言えない。まさか紹介状の文句のとおりに、「御指南を受けに来ました。」とも言えない。それでは、まるで剣客みたいだ。もじもじしているうちに、カッと癇癪《かんしゃく》が起って来た。
「いったい先生は、いらっしゃるのですか。」
「いらっしゃいます。」にこにこ笑っている。たしかに僕を馬鹿にしているようである。あまく見ている。
「紹介状をごらんにいれましたか。」
「いいえ。」けろりとしている。
「なあんだ。」僕は、この家全体を侮辱してやりたいような気がした。
「お仕事中ですの。」いやに子供っぽい口調で言う。舌が短いのではないかと思った。ひょいと首をかしげて、「またいらっしゃいません?」
 ていのいい玄関払いだ。その手に乗ってたまるものか。
「いつごろ、おひまになりますか。」
「さあ、二、三日たったら、どうでしょうかしら。」すこしも要領を得ない。
「それでは、」僕は胸を張って言った。「五月三日の今ごろ、またお伺い致します。その時は、よろしくお願いします。」屹《き》っと少女をにらんでやった。
「はあ。」と、たより無い返事をして、やはり笑っている。狂女ではなかろうかと、ふと思った。
 要するに、一つとして収穫が無かった。僕は、ぼんやりした顔をして家へかえった。なんだか、ひどく疲れて、兄さんに報告するのも面倒くさくてかなわなかった。兄さんは、いちいちこまかいところまで、僕に尋ねる。
「その女は何者かというのが、問題だ。いくつくらいだったね? 綺麗《きれい》なひとかい?」
「わからんよ僕には。狂女じゃないかと思うんだけど。」
「まさか。それはね、やっぱり女中さんだよ。秘書を兼ねたる女中、というところだ。女学校は卒業してるね。だからもう、十九、いや二十《はたち》を
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