が、この一句に歌い込められているのだそうだ。決して、その主人が退屈して畳にごろりと寝ころんでいるのではなく、おのが理想に向って勇往邁進している姿なのだそうである。また楽しからずやの「また」というところにも、いろいろむずかしい意味があって、矢部氏はながながと説明してくれたが、これは、忘れた。とにかく、中学校のガマ仙の、上酒一升、鴨一羽は、遺憾ながら、凡俗の解釈というより他《ほか》は無いらしい。けれども、正直を言うと、僕だって、上酒一升、鴨一羽は、わるい気はしない。充分にたのしい。ガマ仙の解釈も、捨て難《がた》いような気がするのだ。わが思想も遠方より理解せられ、そうして上酒一升、鴨一羽が、よき夕《ゆうべ》に舞い込むというのが、僕の理想であるが、それではあまりに慾《よく》が深すぎるかも知れない。とにかく、矢部一太氏の堂々たる講義を聞きながら、中学のガマ仙を、へんになつかしくなったのも、事実である。やっぱりことしも、中学で、上酒一升、鴨一羽の講義をいい気持でやっているに違いない。ガマ仙の講義は、お伽噺《とぎばなし》だ。
 昼休みの時間に、僕は教室にひとり残って、小山内薫《おさないかおる》の「芝居入門」を読んでいたら、本科の鬚《ひげ》もじゃの学生が、のっそり教室へはいって来て、
「芹川《せりかわ》は居《お》らんか!」と大きい声で叫んで、「なんだ、誰《だれ》も居らんじゃないか。」と口をとがっらせて、「おい、チゴさん。芹川は、どこにいるか知らんか?」と僕に向ってたずねるのである。よほどの、あわて者らしい。
「芹川は、僕ですけど。」と僕は、顔をしかめて答えたら、
「なんだ、そうか。しっけい、しっけい。」と言って頭を掻《か》いた。無邪気な笑顔であった。「蹴球部《しゅうきゅうぶ》の者だがね、ちょっと来てくれないか。」
 僕は校庭に連れ出された。桜並木の下で、本科の学生が五、六人、立ったりしゃがんだり、けれども一様に真面目《まじめ》な顔をして、僕を待っていた。
「これが、その、芹川進だ。」れいの、あわて者が笑いながらそう言って、僕を皆の前へ押し出した。
「そうか。」ひどく額《ひたい》の広い四十過ぎみたいに見える重厚な感じの学生が、鷹揚《おうよう》にうなずいて、「君は、もう、蹴球をよしたのかい?」と少しも笑わずに僕にたずねる。僕はちょっと圧迫を感じた。初対面の時でも少しも笑わずに話をする人
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