写真に依《よ》って、多くの志望者の中から選び出された少数者なのだ。ずいぶん心細い選手たちである。けれども、こんな白痴みたいな人たちこそ、案外、演技のほうで天才的な才能を発揮するのかも知れない。あり得る事だ。油断してはならない、などと考えていたら、番頭さんがひょいとドアから顔を出して、
「お書きになりました方《かた》は、その答案をお持ちになって、どうぞこちらへ。」また御案内だ。
書き上げたのは僕ひとりだ。僕は立って廊下へ出た。別棟《べつむね》の広い部屋に通された。なかなか立派な部屋だ。大きい食卓が、二つ置かれてある。床の間寄りの食卓をかこんで試験官が六人、二メートルくらいはなれて受験者の食卓。受験者は、僕ひとり。僕たちの先に呼ばれた五人の受験者たちは、もう皆すんで退出したのか、誰《だれ》もいない。僕は立って礼をして、それから食卓に向ってきちんと坐った。いる、いる。市川菊之助《いちかわきくのすけ》、瀬川国十郎、沢村嘉右衛門《さわむらかえもん》、坂東市松《ばんどういちまつ》、坂田門之助、染川文七、最高幹部が、一様に、にこにこ笑ってこっちを見ている。僕も笑った。
「何を読みますか?」瀬川国十郎が、金歯をちらと光らせて言った。
「ファウスト!」ずいぶん意気込んで言ったつもりなのだが、国十郎は軽く首肯《うなず》いて、
「どうぞ。」
僕はポケットから鴎外訳の「ファウスト」を取り出し、れいの、花咲ける野の場を、それこそ、天も響けと読み上げた。この「ファウスト」を選ぶまでには、兄さんと二人で実に考えた。春秋座には歌舞伎《かぶき》の古典が歓迎されるだろうという兄さんの意見で、黙阿弥《もくあみ》や逍遥《しょうよう》、綺堂《きどう》、また斎藤先生のものなど色々やってみたが、どうも左団次や羽左衛門《うざえもん》の声色《こわいろ》みたいになっていけない。僕の個性が出ないのだ。そうかといって、武者小路《むしゃのこうじ》や久保田万太郎《くぼたまんじゅうろう》のは、台詞《せりふ》がとぎれて、どうも朗読のテキストには向かないのだ。一人三役くらいで対話の朗読など、いまの僕の力では危かしいし、一人で長い台詞を言う場面は、一つの戯曲にせいぜい二つか三つ、いや何も無い事さえあって、意外にも少いものなのだ。たまにあるかと思うと、それはもう既に名優の声色、宴会の隠芸《かくしげい》だ。何でもいいから、一つだけ選
前へ
次へ
全116ページ中102ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング