さび》しさ、たまらない。空虚だ。人間は、もっと真面目《まじめ》に生きなければならぬものである。男子は、人に可愛がられようと思ったりしては、いけない。男子は、人に「尊敬」されるように、努力すべきものである。このごろ、僕の表情は、異様に深刻らしい。深刻すぎて、とうとう昨夜、兄さんから忠告を受けた。
「進《すすむ》は、ばかに重厚になったじゃないか。急に老《ふ》けたね。」と晩ごはんのあとで、兄さんが笑いながら言った。僕は、深く考えてから、答えた。
「むずかしい人生問題が、たくさんあるんだ。僕は、これから戦って行くんです。たとえば、学校の試験制度などに就いて、――」
と言いかけたら、兄さんは噴き出した。
「わかったよ。でも、そんなに毎日、怖い顔をして力《りき》んでいなくてもいいじゃないか。このごろ少し痩《や》せたようだぜ。あとで、マタイの六章を読んであげよう。」
いい兄さんなのだ。帝大の英文科に、四年前にはいったのだけれども、まだ卒業しない。いちど落第したわけなんだが、兄さんは平気だ。頭が悪くて落第したんじゃないから、決して兄さんの恥辱ではないと僕も思う。兄さんは、正義の心から落第したのだ。きっとそうだ。兄さんには、学校なんか、つまらなくて仕様が無いのだろう。毎晩、徹夜で小説を書いている。
ゆうべ兄さんから、マタイ六章の十六節以下を読んでもらった。それは、重大な思想であった。僕は自分の現在の未熟が恥ずかしくて、頬《ほお》が赤くなった。忘れぬように、その教えをここに大きく書き写して置こう。
「なんじら断食《だんじき》するとき、偽善者のごとく、悲しき面容《おももち》をすな。彼らは断食することを人に顕《あらわ》さんとて、その顔色を害《そこな》うなり。誠に汝《なんじ》らに告ぐ、彼らは既にその報《むくい》を得たり。なんじは断食するとき、頭《かしら》に油をぬり、顔を洗え。これ断食することの人に顕れずして、隠れたるに在《いま》す汝の父にあらわれん為《ため》なり。さらば隠れたるに見たまう汝の父は報い給《たま》わん。」
微妙な思想だ。これに較《くら》べると、僕は、話にも何もならぬくらいに単純だった。おっちょこちょいの、出しゃばりだった。反省、反省。
「微笑もて正義を為《な》せ!」
いいモットオが出来た。紙に書いて、壁に張って置こうかしら。ああ、いけねえ。すぐそれだ。「人に顕さんとて、
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