たら、杉野さんが、こわばった表情をして、用事ありげに僕たちの部屋へはいって来て、ぺたりと坐って、
「当分おわかれですわね。」と笑うような顔で、口をへんに曲げて言って、一瞬後、ひいと声を挙げて泣き伏した。
意外であった。兄さんと僕とは顔を見合せた。兄さんは、口をとがらせていた。当惑の様子である。杉野さんは、それから二、三分、泣きじゃくっていた。僕たちは黙っていた。杉野さんは、やがて起き上り、顔をエプロンで覆《おお》ったまま部屋から出て行った。
「なあんだ。」と僕が小さい声で言うと、兄さんも顔をしかめて、
「みっともない。」と言った。
けれども僕には、だいたいわかった。その時は、それ以上、杉野さんに就いて語るのをお互いに避けて、他の雑談をはじめたが、みんながタクシイに乗って出発した後で、さすがに、兄さんは、ちょっと考え込んだ様子であった。
兄さんは二階の部屋に仰向に寝ころんで、
「結婚しちゃおうか。」と言って笑った。
「兄さん、前から気がついていたの?」
「わからん。さっき泣き出したので、おや? と思ったんだ。」
「兄さんも、杉野さんを好きなの?」
「好きじゃないねえ。僕より、としが上だよ。」
「じゃ、なぜ結婚するの?」
「だって、泣くんだもの。」
二人で大笑いした。
杉野さんも、見かけに寄らずロマンチックなところがある。けれども、このロマンスは成立せず。杉野さんの求愛の形式は、ただ、ひいと泣いてみせる事である。実に、下手くそを極めた形式である。ロマンスには、滑稽感《こっけいかん》は禁物である。杉野さんも、あの時ちょっと泣いて、「しまった!」と思い、それから何もかもあきらめて九十九里へ出発したのに違いない。老嬢の恋は、残念ながら一場の笑話に終ってしまったようだ。
「花火だね。」兄さんは詩人らしい結論を与えた。
「線香花火だ。」僕は、現実家らしくそれを訂正した。
なんだか淋しい。家が、がらんとしている。晩ごはんをすましてから、兄さんと相談して演舞場へ行ってみる事にした。木島さんをも誘った。おシュン婆さんはお留守番。
演舞場では、いま春秋座の一党が出演しているのだ。「女殺油地獄《おんなころしあぶらのじごく》」と、それから鴎外の「雁《がん》」を新人の川上祐吉《かわかみゆうきち》氏が脚色したのと、それから「葉桜」という新舞踊。それぞれ、新聞などでも、評判がいいよう
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