「劇団? 映画俳優じゃないのかね。」
「映画俳優は、サンボルですよ。それの現実にこだわっているわけじゃないんです。とにかく日本一、いや、世界一の役者になりたいんですよ。」兄さんは、僕の気持をそのまま、すらすら言ってくれる。僕には、とてもこんなに正確に言えない。「だからまず、斎藤氏の意見なども聞いて、いい劇団へはいって五年でも十年でも演技を磨《みが》きたいという覚悟なのです。あとは映画に出ようが、歌舞伎《かぶき》に出ようが、問題ではないわけです。」
「ばかに手まわしがいいね。あながち、春の一夜の空想でもないわけなんだね?」
「冗談じゃない。僕が失敗しても、弟だけは成功させたいと思っているんです。」
「いや、二人とも成功しなければいかん。とにかく勉強だ。」と大声で言って、「君たちは、いまのところ暮しの心配もないようだから、まあ気長にみっちりやるんだね。めぐまれた環境を無駄《むだ》にしてはいかん。だけど、役者とは、おどろいたなあ。とに角それじゃ斎藤さんに、紹介の手紙を書きましょう。持って行ってみなさい。頑固《がんこ》な人だからね、玄関払いを食うかも知れんぞ。」
「その時には、また、もう一度、津田さんに紹介状を書いていただきます。」兄さんは、すまして言う。
「芹川も、いつのまにやら図々《ずうずう》しくなってしまいやがった。この図々しさが、作品にも、少し出るといいんだがねえ。」
兄さんは、急にしょげた。
「僕も十年計画で、やり直すつもりです。」
「一生だ。一生の修業だよ。このごろ作品を書いているかね?」
「はあ、どうもむずかしくて。」
「書いていないようだね。」津田さんは溜息《ためいき》をついた。「君は、日常生活のプライドにこだわりすぎていけない。」
冗談を言い合っていても、作品の話になると、流石《さすが》にきびしい雰囲気《ふんいき》が四辺に感ぜられた。本当に佳《よ》い師弟だと思った。紹介状を書いていただいて、おいとまする時、津田さんが、玄関まで見送って来られて、
「四十になっても五十になっても、くるしさに増減は無いね。」とひとりごとのように呟《つぶや》いた言葉が、どきんと胸にこたえた。
作家も、津田さんくらいになると、やっぱり違ったところがあると思った。
本郷の街を歩きながら、兄さんは、
「どうも本郷は憂鬱《ゆううつ》だね。僕みたいに、帝大を中途でよした者には、この
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