事で一日を過します。このごろ、しょっちゅう、死にたい死にたいと思います。そうしては、玻璃子の事が思い浮んで来て、なんとかしてねばって、生きていなければならぬと思いかえします。こないだうち、泣くと耳にわるいと思って、がまんにがまんしていた涙を、つい二、三日前、こらえ切れなくなって、いちどに、滝のように流しましたら、気分がいくらか楽になりました。もういまでは、耳の聞えない事に、ほんの少し、あきらめも出て来ましたが、悪くなりはじめの頃は、半狂乱でしたの。一日のうちに、何回も何回も、火箸《ひばし》でもって火鉢のふちをたたいてみます。音がよく聞えるかどうか、ためしてみるのです。夜中でも、目が覚めさえすれば、すぐに寝床に腹這いになって、ぽんぽん火鉢をたたいてみます。あさましい姿です。畳を爪《つめ》でひっかいてみます。なるべく聞きとりにくいような音をえらんでやってみるのです。人がたずねて来ると、その人に大きな声を出させたり、ちいさい声を出させたり、一時間も二時間も、しつこく続けて注文して、いろいろさまざま聴力をためしてみるので、お客様たちは閉口して、このごろは、あんまりたずねて来なくなりました。夜おそく、電車通りにひとりで立っていて、すぐ目の前を走って行く電車の音に耳をすましていることもありました。
 もう今では、電車の音も、紙を引き裂くくらいの小さい音になりました。間も無く、なんにも聞えなくなるのでしょう。からだ全体が、わるいようです。毎夜、お寝巻を三度も取りかえます。寝汗でぐしょぐしょになるのです。いままでかいた絵は、みんな破って棄てました。一つ残さず棄てました。私の絵は、とても下手だったのです。あなただけが、本当の事をおっしゃいました。他の人は、みんな私を、おだてました。私は、出来る事なら、あなたのように、まずしくとも気楽な、芸術家の生活をしたかった。お笑い下さい。私の家は破産して、母も間もなく死んで、父は北海道へ逃げて行きました。私は、草田の家にいるのが、つらくなりました。その頃から、あなたの小説を読みはじめて、こんな生きかたもあるか、と生きる目標が一つ見つかったような気がしていました。私も、あなたと同じ、まずしい子です。あなたにお逢いしたくなりました。三年前のお正月に、本当に久し振りにお目にかかる事が出来て、うれしゅうございました。私は、あなたの気ままな酔いかたを見て、ねたましいくらい、うらやましく思いました。これが本当の生きかただ。虚飾も世辞もなく、そうしてひとり誇りを高くして生きている。こんな生きかたが、いいなあと思いました。けれども私には、どうする事も出来ません。そのうちに主人が私に絵をかく事をすすめて、私は主人を信じていますので、(いまでも私は主人を愛しております)中泉さんのアトリエに通う事になりましたが、たちまち皆さんの熱狂的な賞讃の的《まと》になり、はじめは私もただ当惑いたしましたが、主人まで真顔になって、お前は天才かも知れぬなどと申します。私は主人の美術鑑賞眼をとても尊敬していましたので、とうとう私も逆上し、かねてあこがれの芸術家の生活をはじめるつもりで家を出ました。ばかな女ですね。中泉さんのアトリエにかよっている研究生たちと一緒に、二、三日箱根で遊んで、その間に、ちょっと気にいった絵が出来ましたので、まず、あなたに見ていただきたくて、いさんであなたのお家へまいりましたのに、思いがけず、さんざんな目に逢いました。私は恥ずかしゅうございました。あなたに絵を見てもらって、ほめられて、そうして、あなたのお家の近くに間借りでもして、お互いまずしい芸術家としてお友だちになりたいと思っていました。私は狂っていたのです。あなたに面罵《めんば》せられて、はじめて私は、正気になりました。自分の馬鹿を知りました。わかい研究生たちが、どんなに私の絵を褒めても、それは皆あさはかなお世辞で、かげでは舌を出しているのだという事に気がつきました。けれどもその時には、もう、私の生活が取りかえしのつかぬところまで落ちていました。引き返すことが出来なくなっていました。落ちるところまで落ちて見ましょう。私は毎晩お酒を飲みました。わかい研究生たちと徹夜で騒ぎました。焼酎《しょうちゅう》も、ジンも飲みました。きざな、ばかな女ですね。
 愚痴《ぐち》は、もう申しますまい。私は、いさぎよく罰を受けます。窓のそとの樹の枝のゆれぐあいで、風がひどいなと思っているうちに、雨が横なぐりに降って来ました。雨の音も、風の音も、私にはなんにも聞えませぬ。サイレントの映画のようで、おそろしいくらい、淋しい夕暮です。この手紙に御返事は要りませんのですよ。私のことは、どうか気になさらないで下さい。淋しさのあまり、ちょっと書いてみたのです。あなたは平気でいらして下さい。――
 手紙に
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