く、馬鹿な夫婦だと思って、呆《あき》れた。
それから三日目だったか、わが天才女史は絵具箱をひっさげて、僕の陋屋に出現した。菜葉服《なっぱふく》のような粗末な洋服を着ている。気味わるいほど頬がこけて、眼が異様に大きくなっていた。けれども、謂《い》わば、一流の貴婦人の品位は、犯しがたかった。
「おあがりなさい。」僕はことさらに乱暴な口をきいた。「どこへ行っていたのですか。草田さんがとても心配していましたよ。」
「あなたは、芸術家ですか。」玄関のたたきにつっ立ったまま、そっぽを向いてそう呟《つぶや》いた。れいの冷い、高慢な口調である。
「何を言っているのです。きざな事を言ってはいけません。草田さんも閉口していましたよ。玻璃子ちゃんのいるのをお忘れですか?」
「アパートを捜しているのですけど、」夫人は、僕の言葉を全然黙殺している。「このへんにありませんか。」
「奥さん、どうかしていますね。もの笑いの種ですよ。およしになって下さい。」
「ひとりで仕事をしたいのです。」夫人は、ちっとも悪びれない。「家を一軒借りても、いいんですけど。」
「薬がききすぎたと、草田さんも後悔していましたよ。二十世紀には、芸術家も天才もないんです。」
「あなたは俗物ね。」平気な顔をして言った。「草田のほうが、まだ理解があります。」
僕に対して、こんな失敬なことを言うお客には帰ってもらうことにしている。僕には、信じている一事があるのだ。誰かれに、わかってもらわなくともいいのだ。いやなら来るな。
「あなたは、何しに来たのですか。お帰りになったらどうですか。」
「帰ります。」少し笑って、「画を、お見せしましょうか。」
「たくさんです。たいていわかっています。」
「そう。」僕の顔を、それこそ穴のあくほど見つめた。「さようなら。」
帰ってしまった。
なんという事だ。あのひとは、たしか僕と同じとしの筈だ。十二、三歳の子供さえあるのだ。人におだてられて発狂した。おだてる人も、おだてる人だ。不愉快な事件である。僕は、この事件に対して、恐怖をさえ感じた。
それから約二箇月間、静子夫人の来訪はなかったが、草田惣兵衛氏からは、その間に五、六回、手紙をもらった。困り切っているらしい。静子夫人は、その後、赤坂のアパートに起居して、はじめは神妙に、中泉画伯のアトリエに通っていたが、やがてその老画伯をも軽蔑して、絵の勉強は、ほとんどせず、画伯のアトリエの若い研究生たちを自分のアパートに呼び集めて、その研究生たちのお世辞に酔って、毎晩、有頂天の馬鹿騒ぎをしていた。草田氏は恥をしのんで、単身赤坂のアパートを訪れ、家へ帰るように懇願したが、だめであった。静子夫人には、鼻であしらわれ、取巻きの研究生たちにさえ、天才の敵として攻撃せられ、その上、持っていたお金をみんな巻き上げられた。三度おとずれたが、三度とも同じ憂目《うきめ》に逢った。もういまでは、草田氏も覚悟をきめている。それにしても、玻璃子が不憫《ふびん》である。どうしたらよいのか、男子としてこんな苦しい立場はない、と四十歳を越えた一流紳士の草田氏が、僕に手紙で言って寄こすのである。けれども僕も、いつか草田の家で受けたあの大恥辱を忘れてはいない。僕には、時々自分でもぞっとするほど執念深いところがある。いちど受けた侮辱を、どうしても忘れる事が出来ない。草田の家の、此《こ》の度《たび》の不幸に同情する気持など少しも起らぬのである。草田氏は僕に、再三、「どうか、よろしく静子に説いてやって下さい」と手紙でたのんで来ているのだが、僕は、動きたくなかった。お金持の使い走りは、いやだった。「僕は奥さんに、たいへん軽蔑されている人間ですから、とてもお役には立ちません。」などと言って、いつも断っていたのである。
十一月のはじめ、庭の山茶花《さざんか》が咲きはじめた頃であった。その朝、僕は、静子夫人から手紙をもらった。
――耳が聞えなくなりました。悪いお酒をたくさん飲んで、中耳炎を起したのです。お医者に見せましたけれども、もう手遅れだそうです。薬缶《やかん》のお湯が、シュンシュン沸いている、あの音も聞えません。窓の外で、樹の枝が枯葉を散らしてゆれ動いておりますが、なんにも音が聞えません。もう、死ぬまで聞く事が出来ません。人の声も、地の底から言っているようにしか聞えません。これも、やがて、全く聞えなくなるのでしょう。耳がよく聞えないという事が、どんなに淋《さび》しい、もどかしいものか、今度という今度は思い知りました。買物などに行って、私の耳の悪い事を知らない人達が、ふつうの人に話すようにものを言うので、私には、何を言っているのか、さっぱりわからなくて、悲しくなってしまいます。自分をなぐさめるために、耳の悪いあの人やこの人の事など思い出してみて、ようやくの
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング