憂愁が、あのひとをあんなにひどく変化させてしまっていたのに違いない。
「ヒステリイですね。」僕は、ふんと笑って言った。
「さあ、それが。」草田氏は、僕の軽蔑に気がつかなかったらしく、まじめに考え込んで、「とにかく、僕がわるいんです。おだて過ぎたのです。薬がききすぎました。」草田氏は夫人を慰める一手段として、夫人に洋画を習わせた。一週間にいちどずつ、近所の中泉花仙とかいう、もう六十歳近い下手《へた》くそな老画伯のアトリエに通わせた。さあ、それから褒《ほ》めた。草田氏をはじめ、その中泉という老耄《ろうもう》の画伯と、それから中泉のアトリエに通っている若い研究生たち、また草田の家に出入りしている有象無象《うぞうむぞう》、寄ってたかって夫人の画を褒めちぎって、あげくの果は夫人の逆上という事になり、「あたしは天才だ」と口走って家出したというのであるが、僕は話を聞きながら何度も噴き出しそうになって困った。なるほど薬がききすぎた。お金持の家庭にありがちな、ばかばかしい喜劇だ。
「いつ、飛び出したんです。」僕は、もう草田夫妻を、ばかにし切っていた。
「きのうです。」
「なあんだ。それじゃ何も騒ぐ事はないじゃないですか。僕の女房だって、僕があんまりお酒を飲みすぎると、里へ行って一晩泊って来る事がありますよ。」
「それとこれとは違います。静子は芸術家として自由な生活をしたいんだそうです。お金をたくさん持って出ました。」
「たくさん?」
「ちょっと多いんです。」
草田氏くらいのお金持が、ちょっと多い、というくらいだから、五千円、あるいは一万円くらいかも知れないと僕は思った。
「それは、いけませんね。」はじめて少し興味を覚えた。貧乏人は、お金の話には無関心でおれない。
「静子はあなたの小説を、いつも読んでいましたから、きっとあなたのお家へお邪魔にあがっているんじゃないかと、――」
「冗談じゃない。僕は、――」敵です、と言おうと思ったのだが、いつもにこにこ笑っている草田氏が、きょうばかりは蒼《あお》くなってしょげ返っているその様子を目前に見て、ちょっと言い出しかねた。
吉祥寺の駅の前でわかれたが、わかれる時に僕は苦笑しながら尋ねた。
「いったい、どんな画をかくんです?」
「変っています。本当に天才みたいなところもあるんです。」意外の答であった。
「へえ。」僕は二の句が継げなかった。つくづ
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