、お金が無いのだ。」いやしい嘘言である。
「あります。」どろぼうは、もそりと言った。
私は、飛び上るほど、ぎょっとした。
「やあ、君は、」思わず大声になってしまって、「君は、どんな根拠があって、そんな、失敬なことを言うのだ。だいたい、失敬じゃないか。僕の家に、お金が在ろうが無かろうが、君は、それに容喙《ようかい》する権利は、ないのだ。君は、一体、誰だ!」極度の恐怖は、何か、怒りに似た絶叫をも、巻き起すものらしい。おびえる犬の吠えるのも、この類《たぐい》である。
どろぼうは、すっと立って、
「金を出せ。」こんどの声は、充分に、凄《すご》く気味わるいものであった。
「出すさ。あったら、出すさ。」さすが守銭奴の私も、この暗中の、ただならぬ険悪の気配には、へたばった。それに自身の、守銭奴ぶりも、あさましくなって来て、「そんなに金が、ほしいのかね。待っている女房、子供もあるんだろう。僕にも覚えが有るよ。女房がヒステリイみたいに口やかましく、君の働きのなさを痛罵《つうば》するものだから、君も大きいこと言って、何か真顔で、きょうすぐお金がはいるあてがあるなんて、まっかな嘘ついて女房を喜ばせ、女房にうんと優しくされて家を出て、さて、なんにも、あてがない。苦しいからなあ。覚えが有るよ。このまま、手ぶらでも、けえられめえ。」私は、もはや、やけくそで、ことさらに下品な口調で言って、「あれも、一種の地獄だあね。どうだい、ちっとは、恥ずかしく思えよ。どだい女房に、まことしやかの嘘をつくのが、けちくさいじゃないか。そんなに女房の喜ぶ顔を拝みたいのかね。君は、女房に惚《ほ》れているな。女房は、君には、すぎたる逸物《いちもつ》なんだろう。え? そうだろう?」そんなに、べらべら、しつこく、どろぼうに絡《から》みついているわけは、どろぼうは、何も言わず、のこのこ机の傍にやって来て、ひき出しをあけて、中をかき廻し、私の精一ぱいのいやがらせをも、てんで相手にせず、私は、そのどろぼうの牛豚のような黙殺の非礼の態度が、どうにも、いまいましく、口から出まかせ、ここぞと罵言《ばげん》をあびせかけていたのである。どうせ、二十円を取られるのだ。ちっとは、悪口でも言ってやらなければ、合わない、と思った。どろぼうは、既に財布《さいふ》を捜し当てた様子で、
「もっとないか。」
「興覚めるね。だから、僕は、リアリストはいやだ。も少し、気のきいたことを言ってもらいたいね。どうせ、その金は、君のものさ。僕の負けさ。どうも、不言実行には、かなわない。」私は、しきりと味気《あじけ》なかった。
「金を出せ。」また、言った。
私は、声のほうへ、ふりむいて、
「ばか! いい加減にしろ! 僕は、ほんとうに怒るぞ。僕は、なんでも知っている。君みたいな奴と、あんまり、あと腐りの縁を持ちたくないから、僕は、さっきから、ばかみたいに、いい加減にとぼけていたのだ。僕は、すっかり知っている。君は、女だ。君は、きょうの夕方、その窓の外で、パリパリと低い音たてて傘をひらいた。あの、しのぶような音は、絶対に女性特有のものだ。男が傘をひらくときは、どんなに静かにひらいても、あんな音は、できないのだ。君は、夕方あらかじめ、僕の家の様子を、内偵しに来たのだ。それにちがいない。君は、僕の家のぐるりをも、細密に偵察した。お隣りの、あのよく吠える犬が、今夜に限って、ちっとも吠えないところを見れば、君は、ゆうべ、あの犬に毒|饅頭《まんじゅう》を食わせてやったにちがいない。むごいことをする奴だ。僕は、ゆうべ、塀の上から覗きこんでいる君の顔を、ちゃんと見て知っている。忘れるものか。僕は、偉い絵かきだから、君の顔を、そのまま、いつでも画いて見せることができる。君の今夜の服装だって、撫《な》で肩だって、一つも、残さず全部、知っている。電燈を消すまえに、ちゃんと見とどけてしまっているのだ。言ってあげようか。君は、わざわざ、印半纏《しるしばんてん》を裏がえしに着ているが、僕には、その半纏の裏の襟《えり》に、どんな文字が染め抜かれて在るか、それさえ、ちゃんとわかっているのだ。言ってあげようか。今金酒造株式会社。どうだい、おどろいたか。僕は、君の手さえ握っているのだ。男か、女か、その区別さえわからないようで、そんな工合で、偉い絵かきとは、言えまい。いいかい、君は、ことし三十一だ。御|亭主《ていしゅ》は、君より年下で、二十六だ。年下の亭主って、可愛いものさ。食べてしまいたいだろう。それに、君の亭主は、気が弱くて、街頭に出て、あの、いんちきの万年筆を、あやしげの口上でのべて売っているのだが、なにせ気の弱い、甘えっ子だから、こないだも、泉法寺の縁日で、万年筆のれいの口上、この万年筆、今回とくべつを以て皆さんに、会社の宣伝のため、無代進呈するものであ
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