とで、ガリガリ鼠の材木を噛る音。ひょいと、そのほうに眼をやったら、もう、そのときは、おそかった。見よ。
 手。雨戸の端が小さく破られ、そこから、白い手が、女のような円い白い手が、すっと出て、ああ、雨戸の内桟を、はずそうと、まるでおいでおいでしているように、その手をゆるく泳がせている。どろぼう! どろぼうである。どろぼうだ。いまは、疑う余地がない。私は、告白する。私は、気が遠くなりかけた。呼吸も、できぬくらいに、はっと一瞬おどろきの姿勢のままで、そのまま凝固し、定着してしまったのである。指一本うごかせない。棕櫚《しゅろ》の葉の如く、両手の指を、ぱっとひろげたまま、活人形のように、ガラス玉の眼を一ぱいに見はったきり、そよとも動かぬ。極度の恐怖感は、たしかに、突風の如き情慾を巻き起させる。それに、ちがいない。恐怖感と、情慾とは、もともと姉妹の間柄であるらしい。どうも、そうらしい。私は、そいつにやられた。ふらふら立ち上って、雨戸に近寄り、矢庭《やにわ》にその手を、私の両手でひたと包み、しかも、心をこめて握りしめちゃった。つづいて、その手に頬ずりしたい夢中の衝動が巻き起って、流石《さすが》に、それは制御した。握りしめて居るうちに、雨戸の外で、かぼそい、蚊《か》の泣くようなあわれな声がして、
「おゆるし下さい。」
 私は、突然、私の勝利を意識した。気がついてみると、私が、勝っていたのである。私は、どろぼうを手づかみにした。そう思ったら、それと同時に、くるくる眩暈《めまい》がはじまって、何か自分が、おそろしい大豪傑にでもなってしまったかのような、たいへんな錯覚が生じたのである。読者にも、おぼえが無いか。私は自身の思わぬ手柄に、たしかに逆上《のぼ》せてしまったのである。
「さ、手を離してあげる。いま、雨戸をあけてあげますからね。」いったい、どんな気で、そんな変調子のことを言い出したものか、あとでいくら考えてみても、その理由は、判明しなかった。私は、そのときは、自分自身を落ちついている、と思っていた。確乎《かっこ》たる自信が、あって、もっともらしい顔をして、おごそかな声で、そう言ったつもりなのであるが、いま考えてみると、どうしても普通でない。謂わば、泰然と腰を抜かしている類《たぐい》かも知れなかった。
 雨戸をあけ、
「さ、はいりたまえ。」いよいよ、いけなかった。たしかに私は、あの、
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