す》かな音が、窓の外から聞えて来た。たしかに、雨傘をこっそり開く音である。日没の頃から、雨が冷たく降りはじめていたのである。誰か、外に立っているにちがいない。私は躊躇《ちゅうちょ》せずに窓をあけた。たそがれ、逢魔《おうま》の時というのであろう、もやもや暗い。塀の上に、ぼんやり白いまるいものが見える。よく見ると、人の顔である。
「やって来たのは、ガスコン兵。」口癖になっていた、あの無意味な、ばからしい言葉。そいつが、まるで突然、口をついて出てしまった。すると、その言葉が何か魔除《まよ》けの呪文《じゅもん》ででもあったかのように、塀の上の目鼻も判然としない杓文字《しゃもじ》に似た小さい顔が、すっと消えた。跡には、ゆすら梅が白く咲いていた。
私は、恐怖よりも、侮辱を感じた。ばかにしてやがる、と思った。本来の私ならば、ここに於いて、あの泥靴の不愉快きわまる夢をはじめ、相ついで私の一身上に起る数々の突飛《とっぴ》の現象をも思い合せ、しかも、いま、この眼で奇怪の魔性のものを、たしかに見とどけてしまったからには、もはや、逡巡《しゅんじゅん》のときでは無い、さては此《こ》の家に何か異変の起るぞと、厳に家人をいましめ、家の戸じまり火の用心、警戒おさおさ、怠ることの無かったでもあろうに、かなしいかな、この日頃の私には、それだけの余裕さえ無かった。おのれの憤怒と絶望を、どうにか素直に書きあらわせた、と思ったとたん、世の中は、にやにや笑って私の額《ひたい》に、「救い難き白痴」としての焼印を、打とうとして手を挙げた。いけない! 私は気づいて、もがき脱れた。危いところであった。打たれて、たまるか。私は、いまは、大事のからだである。真実、そのものを愛し、そのもののために主張してあげたい、その価値を有する弱い尊いものをさえ、私は、いまは見つけたような気がしている。私は、いまは、何よりも先ず、自身の言葉に、権威を持ちたい。何を言っても気ちがい扱いで、相手にされないのでは、私は、いっそ沈黙を守る。激情の果の、無表情。あの、微笑の、能面《のうめん》になりましょう。この世の中で、その発言に権威を持つためには、まず、つつましい一般|市井人《しせいじん》の家を営み、その日常生活の形式に於いて、無慾。人から、うしろ指一本さされない態《てい》の、意志に拠るチャッカリ性。あたりまえの、世間の戒律を、叡智に拠《よ》
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