える。はる、こうろうの花のえん、の曲の合奏である。
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(菊代)(その口笛に聞耳を立て)おや、あたしのお友だちが迎えに来た。行かなくちゃいけない。それじゃあ、お願いしてよ。いいでしょう? 奥さんにね、あたしからだって言わないで、先生から何とか上手《じょうず》に嘘《うそ》ついて奥さんにあげてよ。あのお澄ましの奥さんが、どんな顔をするか、ああ愉快だ。
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菊代、上手《かみて》の出入口に向って走り去る。野中教師、はっと気を取り直して呼びとめる。
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(野中) お待ちなさい、菊代さん。どこへ行くのです。
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菊代、戸口のところに立ち上り、野中教師のほうにくるりと向き直る。口笛は、なお聞えている。
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(菊代)(ほがらかに)お友だちのところへ。
(野中) それじゃあの歌は、あなたが教えてやったのですね?
(菊代)(むしろ得意そうに)そうよ。あたしたちは音楽会をひらくのよ。音楽会をひらいてもうけるのよ。新円をかせぐのよ。はる、こうろう、も、それから、唐人《とうじん》お吉《きち》も、それから青い目をした異人さんという歌も、みんなあたしが教えたのよ。きょうはこれからみんなでお寺に集ってお稽古《けいこ》。うちへ帰るのがおそくなるでしょうから、兄さんにそう言ってね、日本の文化のためですからってね。
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菊代、くすくす笑いながら退場。口笛はなお続く。舞台また少し暗くなる。
野中教師、菊代を二、三歩追いかけ、それから立ちどまり、引返して机の上の角封筒を取り上げ、上衣のポケットに入れて、少し考え、また取り出して封筒の中をしらべる。大型の紙幣、一枚二枚と黙って数える。十枚。あたりを見まわす。また数え直す。
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[#地から3字上げ]――舞台、静かに廻る。
第二場
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舞台は、国民学校教師、野中弥一宅の奥の六畳間。ここは、奥田義雄、同菊代の兄妹が借りている。
部屋の前方は砂地の庭。草も花もなし。きたなげの所謂《いわゆる》「春の枯葉」のみ、そちこちに散らばっている。
舞台とまる。
弥一の義母しづ、庭の物干竿《ものほしざお》より、たくさんの洗濯物を取り込みのさいちゅう。
菊代の兄、奥田義雄は、六畳間の縁側にしゃがんで七輪《しちりん》をばたばた煽《あお》ぎ煮物をしながら、傍に何やら書籍を置いて読んでいる。
斜陽は既に薄れ、暮靄《ぼあい》の気配。
第一場と同じ日。
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(しづ)(洗濯物を取り込み、それを両腕に一ぱいかかえ、上手《かみて》に立ち去りかけて、ふと縁側のほうを見て立ちどまり)あら、奥田先生、お鍋《なべ》が吹きこぼれていますよ。
(奥田)(あわてて鍋の蓋《ふた》を取り、しづの方を見て苦笑し)妹がまたきょうも、どこかへ飛び出して、帰らないものだから、どうも。
(しづ) おや、おや。それでは、お兄さんもたいへんですね。(笑いながら縁側に近寄り)何を煮ていらっしゃるの?
(奥田)(いそいでまた鍋の蓋をして)いや、これは見せられません。何でもかんでもぶち込んで煮て、そうして眼をつぶって呑《の》み込んでしまうつもりなんです。
(しづ)(声を立てて笑って)本当に、男の方の炊事はお気の毒で、見て居られませんわ。あとで、おしんこか何か持って来てあげましょう。
(奥田)(まじめに)いいえ、何も要りません。学生の頃から十何年間、こんな生活ばかりして来たので、かえって妹と一緒にいて妹のへんに気取った料理などを食べるのは、不愉快なくらいなんです。(書籍を持って立ち上り、部屋へはいって、電燈をつける。それから縁側に面した机に向ってあぐらをかき、つまり、観客に正面を向いて坐って、書籍を机の上に置き、無意識の如くパラパラ書籍のペエジをもてあそびながら、ぶっきらぼうに)女のこさえた料理なんて、僕はいちどもおいしいと思ったことが無いんです。
(しづ)(洗濯物を縁側にそっと置いて、自身も浅く縁側に腰をかけ)それはまあ。(鷹揚《おうよう》に笑って、それからしんみり)お母さんが亡くなって、もう何年になりますかしら。
(奥田)(べつに何の感慨も無げに)僕がここの小学校にはいったとしの夏に死んだのですから、もう二十年にもなります。
(しづ) もう、そんなになりますかねえ。わたくしどもも、お母さんのお葬式の時の事は、よく覚えて
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