いかとも考えられてな。それで、どうなんだい? お前たちは、あの歌を、どんな気持で歌っているのか、それをまず正直に、先生に教えてくれないか? やっぱり、淋しくてたまらないから、あんな歌をうたいたくなるのかね? それとも、何か、いたずらの気持で歌っているのかね? どうなんだい?
(学童)(だまっている)
(野中) なんとか一言《ひとこと》でいいから、言ってくれよ。まさか、お前たちは、腹の中で先生を笑っているのじゃあるまいな。(ひとりで低く笑い、立ち上り)もういい。帰ってよろしい。しかし、気持を暗くするような歌は、あまり歌わんほうがいいな。他の生徒たちにも、そう言ってやるように。とにかく、いま僕たちは、少しでも気持を明るく持つように努めなければいけないのだから。もう、よし。お帰り。
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学童、無言で野中教師にお辞儀をし、上手《かみて》の出入口から退場。野中は、それを見送り、しばらくぼんやりしている。やがて、ゆっくり教壇の方に歩いて、教壇に上り、黒板拭きをとって、黒板の文字を一つ一つ念入りに消す。
消しながら、やがて小声で、はる、こうろうの花のえん、めぐるさかずき、影さして、と歌う。
舞台すこし暗くなる。斜陽が薄れて来たのである。

くすくす忍び笑いして、奥田菊代、上手の出入口より登場。
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(菊代) なかなかお上手《じょうず》ね、先生。
(野中)(おどろき、振りかえって菊代を見つけ、苦笑して)なんだ、あなたか。(黒板を拭き終って正面を向き)ひやかしちゃいけません。
(菊代) あら、本当よ。本当に、お上手よ。すばらしいバリトン。
(野中)(いよいよ口をゆがめて苦笑し)よして下さい、ばかばかしい。僕んところは親の代《だい》から音痴《おんち》なんです。(語調をかえて)何か御用? 奥田先生なら、ついさっき帰ったようですよ。
(菊代) いいえ、兄さんに逢いに来たんじゃないんです。(たわむれに、わざと取り澄ました態度で)本日は、野中弥一先生にお目にかかりたくてまいりました。
(野中) なあんだ、うちで毎日、お目にかかってるじゃないか。
(菊代) ええ、でも、同じうちにいても、なかなか二人きりで話す機会は無いものだわ。あら、ごめん。誘惑するんじゃないわよ。
(野中) か
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