拭《ふ》け。(野中自身の腰にさげてあるタオルを、学童に手渡す)
(学童)(素直にタオルで涙を拭く)
(野中)(そのタオルを学童から取って、また自分の腰にさげ)よし、さあ歌ってごらん。叱りやしない。決して叱らないから、いまお前たちが、あの、外のグランドで一緒に歌っていた唱歌を、ここで歌ってごらん。低い声でかまわないから、歌ってごらん。叱るんじゃないんだよ。先生は、あの歌を、ところどころ忘れたのでね、お前からいま教えてもらおうと思っているのだ。それだけなんだから、安心して、さあ、ひとつ男らしく、歌って聞かせてくれ。(言いながら、最前列の学童用の椅子に腰をおろす。つまり観客に対しては、うしろ向きになる)
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから2字下げ]
学童は、観客に対して正面を向き、気を附けの姿勢を執り、眼をつぶって、低く歌う。

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はる、こうろうの花のえん、
めぐるさかずき、影さして、
ちよの松がえ、わけいでし、
むかしの光、いまいずこ。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(学童)(歌い終ってうつむく)
(野中)(机に頬杖《ほおづえ》をつき)ありがとう。いや、先生はね、お前たちも知っているように、唱歌はあまり得意でないのでね、その歌も、うろ覚えでね、おかげで、やっといまはっきりと思い出した。悲しい歌だね。ちかごろお前たちは、よくその唱歌ばかり歌っているようだが、誰か先生が教えてくれたの?
(学童)(首を振る)
(野中) 誰も教えてくれなくても、自然に覚えたの?
(学童)(だまっている)
(野中) この歌の意味が、よくわかって歌っているの? いや、この歌が、お前たちのいまの気持に一ばんぴったりするから、それだから歌っているの?
(学童)(うなだれたまま、だまっている)
(野中) 決して叱りやしないから、思っている事をそのまま言ってごらん。先生もね、いまいろいろ考えているんだ。さっきもあんな工合に、(と、ちょっと正面の黒板を指差し)さまざま黒板に書いて、新しい日本の姿というものをお前たちに教えたつもりだが、しかし、どうも、教えたあとで何だか、たまらなく不安で、淋《さび》しくなるのだ。僕には何もわかっていないんじゃないか、という気さえして来るのだ。かえって、お前たちに教えてもらわなければならぬことがあるんじゃな
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