変な騒ぎでありました。
それ、ごらん。その次の写真に於いて、既に間抜けの本性を暴露している。これもやはり高等学校時代の写真だが、下宿の私の部屋で、机に頬杖《ほおづえ》をつき、くつろいでいらっしゃるお姿だ。なんという気障《きざ》な形だろう。くにゃりと上体をねじ曲げて、歌舞伎のうたた寝の形の如く右の掌を軽く頬にあて、口を小さくすぼめて、眼は上目使《うわめづか》いに遠いところを眺めているという馬鹿さ加減だ。紺絣《こんがすり》に角帯というのもまた珍妙な風俗ですね。これあいかん。襦袢《じゅばん》の襟《えり》を、あくまでも固くきっちり合せて、それこそ、われとわが襟でもって首をくくって死ぬつもり、とでもいったようなところだ。ひどいねえ。矢庭《やにわ》にこの写真を、破って棄てたい発作にとらわれるのだが、でも、それは卑怯《ひきょう》だ。私の過去には、こんな姿も、たしかにあったのだ。鏡花《きょうか》の悪影響かも知れない。笑って下さい。逃げもかくれもせずに、罰を受けます。いさぎよく御高覧に供する次第だ。それにしても、どうも、こいつは、ひどいねえ。そのころ高等学校では、硬派と軟派と対立していて、軟派の生徒が、時々、硬派の生徒に殴《なぐ》られたものですが、私が、このような大軟派の恰好で街を歩いても、ついに一度も殴られた事がない。忠告された事も無い。さすがの硬派たちも、私のこんな姿に接しては、あまりの事に、呆れて、敬遠したのかも知れませんね。私は今だってなかなかの馬鹿ですが、そのころは馬鹿より悪い。妖怪でした。贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の生活をしていながら、生きているのがいやになって、自殺を計った事もありました。何が何やら、わからぬ時代でありました。大軟派といっても、それは形ばかりで、女性には臆病でした。ただ、むやみに、気取ってばかりいるのです。女の事で、実際に問題を起したのは、大学へはいってからです。
これは大学時代の写真ですが、この頃になると、多少、生活苦に似たものを嘗《な》めているので、顔の表情も、そんなに突飛では無いようですし、服装も、普通の制服制帽で、どこやら既に老い疲れている影さえ見えます。もう、この頃、私は或る女のひとと同棲《どうせい》をはじめていたのです。でも、こんな工合いに大袈裟に腕組みをしているところなど、やっぱり少し気取っていますね。もっとも、この写真を写す時には、
前へ
次へ
全9ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング