れは僕の意志ではないんだ。君はこの恋愛の進展につれて、君自身、僕のところへ来にくくなるだろう。謂《い》わば、互いにてれ臭く気まずくなり、僕は君に敬遠せられ、僕の意志に依《よ》らずとも、自然に絶交の形になるだろう。言いたいのは、それだけだ。では、失敬する。馬鹿野郎!」
 ふらふらと立ち上った時に、
「あの、失礼ですが、」
 と名刺片手に笠井氏に近づいた人は、れいの抜け目ない紳士、柳田でした。
「はじめて、おめにかかります。僕はこんなものですが、うちの伊藤君が、これまでいろいろお世話になりまして、いちど僕もご挨拶《あいさつ》にあがろうと思いながら、……つい、……。」
 笠井氏は柳田から名刺を受取り、近眼の様子で眼から五寸くらいの距離に近づけて読み、
「すると、君は編輯部長か。つまり、伊藤の兄貴分なのだね。僕は、君を、うらむ。なぜ、こうなる前に、君は伊藤に忠告しなかったんだ。へっぽこ部長だ、お前は。かえって、伊藤をそそのかしたんじゃないか。どだい、その、赤いネクタイが気に食わん。」
 しかし、柳田は平然と微笑し、
「ネクタイは、すぐに取りかえます。僕も、これは、あまり結構ではないと思っていたんです。」
「そう、結構でない。そう知りながら、どうして伊藤に忠告しなかったんだ。忠告を。」
「いいえ、ネクタイの事です。」
「ネクタイなんか、どうだっていい。お前の服装なんか、どうだってかまやしない。問題は、僕が伊藤と絶交するという事だけなんだ。それだけだ。あともう、言う事は無い。失敬する。みんな馬鹿野郎ばっかりだ。」
 言い捨てて勘定も払わず蹌踉《そうろう》と屋台から出て行きます。さすが、抜け目ない柳田も、頭をかいて苦笑し、
「酒乱にはかなわねえ。腕力も強そうだしさ。仕末《しまつ》が悪いよ。とにかく、伊藤。先生のあとを追って行って、あやまって来てくれ。僕もこんどの君の恋愛には、ハラハラしていたんだが、しかし、出来たものは仕様が無えしなあ。あいつこそ、わからずやの馬鹿野郎だが、あれでまた、これから、うちの雑誌には書かねえなんて反《そ》り身《み》になって言い出しやがったら、かなわねえ。行ってくれ。行って、そうしてまあ、いい加減ごまかしを言って、あやまるんだな。御教訓に依って、目がさめました、なんて言ってね。」
 僕は、すぐ笠井氏を追って屋台から出て、その時、振りかえってちらとトヨ公のおかみを見たら、おかみは、顔を伏せていました。
「先生、お送りします。」
 新橋駅で追いつき、そう言いますと、
「来たか。」
 と予期していたような口調で言い、
「もう一軒、飲もう。」
 雪がちらちら降りはじめていました。
「自動車を拾え。自動車を。」
「どこへ?」
「新宿だ。」
 自動車の中で、笠井氏は、
「一ぱい飲んでフウラフラ。二はい飲んでグウラグラ。フウラフラのグウラグラ。」
 とお念仏みたいな節《ふし》で低く繰りかえし繰りかえし唄い、そうして、ほとんど眠りかけている様子に見えました。
 僕は、いまいましいやら、不安なやら、悲しいやら、外套《がいとう》のポケットから吸いかけの煙草をさぐり出し、寒さにかじかんだれいの問題の細長い指先でつまんで、ライタアの火をつけ、窓外の闇の中に舞い飛ぶ雪片を見ていました。
「伊藤は、こんどいくつになったんだい?」
 まるっきり眠りこけているわけでも無かったのでした。二重廻しの襟《えり》に顔を埋めたまま、そう言いました。
 僕は、自分の年齢を告げました。
「若いなあ。おどろいた。それじゃ、まあ、無理もないが、しかし、女の事は気をつけろ。僕は何も、あの女が特に悪いというのじゃない。あのひとの事は、僕は何も知らん。また、知ろうとも思わない。いや、よしんば知っていたって、とやかく言う資格は僕には無い。僕は局外者だ。どだい、何も興味が無いんだ。だけど僕には、なぜだか、お前ひとりを惜しむ気持があるんだ。惜しい。すき好んで、自分から地獄行きを志願する必要は無いと思うんだ。君のいまの気持くらい、僕だって知ってるさ。そりゃお前の百倍もそれ以上ものたくさんの女に惚れられたものだ。本当さ。しかし、いつでも地獄の思いだったなあ。わからねえんだ。女の気持が、わからなくなって来るんだ。僕はね、人類、猿類、などという動物学上の区別の仕方は、あれは間違いだと思っている。男類、女類、猿類、とこう来なくちゃいけない。全然、種属がちがうのだ。からだがちがっているのと同様に、その思考の方法も、会話の意味も、匂い、音、風景などに対する反応の仕方も、まるっきり違っているのだ。女のからだにならない限り、絶対に男類には理解できない不思議な世界に女というものは平然と住んでいるのだ。君は、ためしてみた事があるかね。駅のプラットフォームに立って、やや遠い風景を眺《なが》め、それから
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