、僕はこんな痩せっぽちで、顔色も蒼黒く、とにかくその容貌《ようぼう》風采《ふうさい》に於いては一つとしていいところが無いのは、僕だって、イヤになるほど、それこそ的確に知っているつもりです。けれども、僕の両手の指が、へんに細長く、爪《つめ》の色も薄赤く、他にほめるところが全く無いせいだろうと思いますが、これまでも実にしばしば女のひとにほめられて、握手を求められた事さえありました。
「なぜ?」
僕は、知っていながら、不審そうにたずねました。
「綺麗《きれい》な手。ピアノのほうでしょう?」
果して、そうでした。
「何、ピアノ?」
と、れいの抜け目の無い友人は、大袈裟《おおげさ》に噴《ふ》き出し、
「ピアノの掃除だって出来やしねえ。そいつの手は、ただ痩せているだけなんだよ。痩せた男が音楽家なら、ガンジー翁にオーケストラの指揮が出来るという理窟《りくつ》になる。」
傍の客たちも笑いました。
けれども、僕にはその夜、おかみから、まじめに一言ほめられた事が、奇妙に忘れられませんでした。これまでも、いろいろの女のひとから僕の手をほめられ、また、握手を求められた事さえあったのに、それらは皆、その席の一時の冗談として、僕は少しも気にとめていなかったのですが、あのトヨ公のおかみの何気なさそうなお世辞だけは、妙に心にしみました。女のひとたちは、どうだか知りませんが、男というものは、女からへんにまじめに一言でもお世辞を言われると、僕のようなぶざいくな男でも、にわかにムラムラ自信が出て来て、そうしてその揚句《あげく》、男はその女のひとに見っともないくらい図々《ずうずう》しく振舞い、そうして男も女も、みじめな身の上になってしまうというのが、世間によく見掛ける悲劇の経緯のように思われます。女のひとは、めったに男にお世辞なんか言うべきものでは無いかも知れませんね。とにかく、僕たちの場合、たった一言の指のお世辞から、ぐんぐん悲劇に突入しました。じっさい、自惚《うぬぼ》れが無ければ、恋愛も何も成立できやしませんが、僕はそれから毎晩のようにトヨ公に通い、また、昼にはおかみと一緒に銀座を歩いたり、そうして、ただもう自惚れを増すばかりで、はたから見たら、あさましい馬か狼《おおかみ》がよだれを流して荒れ狂ってるみたいな、にがにがしい限りのものだったのでしょう。とうとう僕は、或る夜、トヨ公で酔っぱらい作家の笠井健一郎氏に面罵《めんば》せられました。
笠井氏は、僕の郷里の先輩で、僕の死んだ兄とは大学で同級生だったらしく、その関係もあり、笠井氏と僕とは、単に作家と編輯者の附合い以上に親しくしていて、僕の雑誌でも笠井氏の原稿をもらうのは、もっぱら僕の係りで、また笠井氏も、僕の原稿依頼なら、割に機嫌《きげん》よく聞いてくれたものでした。
その笠井氏が、まったく思いがけなく、新橋のおでん屋のトヨ公にはいって来たので、ぎょっとしました。笠井氏はお宅が新宿ちかくでしたので、その方面で毎晩のように飲み歩き、新橋のほうにまで出て来る事はめったに無かったのです。その夜は何かの会の帰りらしく、和服に袴《はかま》をはいていました。かなりもう酔っているようで、ふらふら僕の傍にやって来て腰をおろし、
「聞いた。馬鹿野郎だ、お前は。」
本気に怒っている顔でした。
「あれか? あの女が、そうか?」
おでんを煮込んでいるおかみのほうを顎《あご》でしゃくり、
「ちっとも、よかあ無《ね》えじゃないか。これでお前の男も、すたった。どだい、君、亭主のある女と、……」
「それは、」
とトヨ公は、みじんも表情をかえず、
「もう、とうに私どもは、夫婦わかれをしているのです。私どもは、気が合いません。」
と、落ちついて言い、笠井氏のコップになみなみと焼酎をつぎます。
「いや、それあ、君たち夫婦の事は、君たち夫婦でなければわからない。僕の知った事じゃない。どだい、興味が無い。また、伊藤(僕の名)たちの恋愛が、どんな具合いに進展しているのか、それも、ちっとも知りたくない。うん、この焼酎はなかなかいい。君、君、もう一ぱいくれ。それから、水をくれ。おうい、おかみさん、ここへも何か食べるものをくれ。しかし、少くとも僕は、他人の夫婦の離合集散や恋愛のてんまつなどに、失敬千万な興味などを持つような、そんな下品な男でだけは無いつもりだ。じつに、なんにも、興味が無い。」
笠井氏は既に泥酔《でいすい》に近く、あたりかまわず大声を張りあげて喚《わめ》き散らすので、他の酔客たちも興が覚めた顔つきで、頬杖《ほおづえ》なんかつきながら、ぼんやり笠井氏の蛮声に耳を傾けていました。
「ただ、この、伊藤に向って一こと言って置きたい事があるんだ。そのために、今晩ここへ立寄らせてもらったんだ。おい、伊藤君。僕は、君と絶交する。しかし、そ
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